国家神道の解体
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「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行 より転記
国家と神道の分離
連合国司令部は、昭和20年12月15日いわゆる「神道指令」と呼ばれる覚書を発した。
前文の中には、
「日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する意図のもとに、
神道の教理並びに信仰を歪曲して軍国主義的並びに過激なる国家主義宣伝に利用するが如きことの
再び起ることをことを防止する為に」とある。
主な内容は国家と神社神道の完全な分離、国家神道(神社神道)の教義・儀式の宣伝の禁止、
内務省神祇院の廃止などであった。
そして神社神道は国の保護から離れ、軍国主義、過激な国家主義的要素を除けば民間の一宗教として存続できることを明らかにした。
翌21年1月1日、
天皇みずからの神格否定の人間宣言、神祇院廃止、2月2日宗教法人改正公布によって解体した。
連合国総司令部は軍国・国家主義を除けば宗教とみなした。
それによって神社神道が廃絶をまぬがれた。
「アメリカ人は信仰の自由を大切にする。
神道はつぶしたくても、信仰の自由を犯してはたいへんだと、自らジレンマにおちいった」
改革を迫られた神社神道は、昭和21年2月宗教法人神社本庁を設立した。
翌3月岡山県神職会が中心となって、神社本庁県支部として宗教法人県神社庁を設立した。
連合国総司令部がもっとも注目していたのは、靖国・護国神社グループの動きであった。
靖国・護国神社グループは軍国主義的色彩を消すのに懸命であった。
(岡山護国神社 2016.4.5)
護国神社から操山神社へ
岡山県護国神社は昭和21年11月、宗教法人操山神社と改称した。
(講和条約発効の昭和27年、旧名に戻す)
明治初年南朝などの忠君を祭神とする神社が各地につくられた。
操山神社につくられた三勲神社もその一つで、和気清麻呂・楠正行・児島高徳を祭る県社であった。
終戦後浮浪者の宿になり、屋根の銅板は盗まれ、社殿の板・柱は薪にされた。
昭和22年、有志が御霊屋を玉井宮に移した。
氏子もなく地域との結びつきのなかった神社の象徴的なできごとであった。
(玉井東照宮 2016.4.5)
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「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行 より転記
国家と神道の分離
連合国司令部は、昭和20年12月15日いわゆる「神道指令」と呼ばれる覚書を発した。
前文の中には、
「日本国民を欺き侵略戦争へ誘導する意図のもとに、
神道の教理並びに信仰を歪曲して軍国主義的並びに過激なる国家主義宣伝に利用するが如きことの
再び起ることをことを防止する為に」とある。
主な内容は国家と神社神道の完全な分離、国家神道(神社神道)の教義・儀式の宣伝の禁止、
内務省神祇院の廃止などであった。
そして神社神道は国の保護から離れ、軍国主義、過激な国家主義的要素を除けば民間の一宗教として存続できることを明らかにした。
翌21年1月1日、
天皇みずからの神格否定の人間宣言、神祇院廃止、2月2日宗教法人改正公布によって解体した。
連合国総司令部は軍国・国家主義を除けば宗教とみなした。
それによって神社神道が廃絶をまぬがれた。
「アメリカ人は信仰の自由を大切にする。
神道はつぶしたくても、信仰の自由を犯してはたいへんだと、自らジレンマにおちいった」
改革を迫られた神社神道は、昭和21年2月宗教法人神社本庁を設立した。
翌3月岡山県神職会が中心となって、神社本庁県支部として宗教法人県神社庁を設立した。
連合国総司令部がもっとも注目していたのは、靖国・護国神社グループの動きであった。
靖国・護国神社グループは軍国主義的色彩を消すのに懸命であった。
(岡山護国神社 2016.4.5)
護国神社から操山神社へ
岡山県護国神社は昭和21年11月、宗教法人操山神社と改称した。
(講和条約発効の昭和27年、旧名に戻す)
明治初年南朝などの忠君を祭神とする神社が各地につくられた。
操山神社につくられた三勲神社もその一つで、和気清麻呂・楠正行・児島高徳を祭る県社であった。
終戦後浮浪者の宿になり、屋根の銅板は盗まれ、社殿の板・柱は薪にされた。
昭和22年、有志が御霊屋を玉井宮に移した。
氏子もなく地域との結びつきのなかった神社の象徴的なできごとであった。
(玉井東照宮 2016.4.5)