しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

電話をかける

2020年11月27日 | 初めてのこと
電話をかける

高校生になって、名簿表(とでも呼ぶ)氏名・住所を書いた一覧表に電話番号を書く人が何人かいた。
その時、驚き、また高校生になった事を実感もした。
電話を書いた人はお金持ちと、親が商店の人だった。
中学生までの名簿には電話番号は無かった。それが普通だった。思いもしなかった。


高校を卒業する春休み、解放的な3月
友人から電話のかけ方をおしえてもらった。
仁王堂の本屋の前に公衆電話があった。
傍らにいる友の言うように、右手の人差し指でダイヤルを何度か回した。
そしたら呼び出し音がして・・・相手が出た。


その頃、坂本九の「明日があるさ」という歌が流行った。
あの歌と気持ちはよく似ていた。
♪  思いきってダイヤルを
   ふるえる指で回したよ
   ベルがなるよ ベルがなるよ
   出るまで待てぬ僕
   明日がある 明日がある 明日があるさ



・・・・・・・・・・


笠岡市政だより  1957年(昭和32年)3月25日

公衆電話

電電公社では次の場所に公衆電話を設置して、皆さんのご便利を図っております。
せいぜいご利用ください。


笠岡 市内各郵便局
駅構内 笠岡駅販売店
駅前 金藤商店
西本町 電報電話局
住吉 大西商店
大久保 小寺商店
くじば 桑田商店
伏越 田林商店
高島 高島小学校
用之江 城見農協
吉浜 金浦農協
吉浜 高橋商店
生江浜 松浦商店


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井原の製糸・養蚕

2020年11月27日 | 昭和元年~10年
井原の製糸・養蚕

「井原市史Ⅱ」 井原市史編纂委員会  平成17年発行


桑園

明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。
後月郡は37倍、
小田郡は20倍にもなってもいる。

桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。
後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。
全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。

岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。
つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。


中備製糸

明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。
大正2年、創業20周年記念祝賀会が開催された。
女子従業員のための裁縫などの夜学校を開始した。
職工数は大正7年には237人まで増加した。
大正11年には350釜となった。





原料繭は県外から次第に県内、やがて井原の周辺地域中心になった。

損益状況は、かなりの変動がみられる。
繭の不出来、糸価の低落、経済一般。
第一次大戦で乱調子。
大正15年から生産調整。昭和4年以降は赤字続き。
昭和7年に解散した。
昭和初期、多くの製糸場が倒産し、郡是・片倉を頂点とする大手製糸会社への集中がすすんだ。

購繭時期には、井原の中備製糸の前には、繭を売りに来たり、運んできた農民たちで大変賑わった。
製糸女工たちは給料で井原の商店で買物をし、商店の経営を潤した。
昭和7年の解散時には、
「農村並びに商店街も不況にあえぐ折柄、いっそう不況が深刻化するであろう」と報じられた(山陽新報)。


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