しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦没者慰霊施設①忠魂碑

2020年11月06日 | 昭和16年~19年
「続・しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

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戦没者慰霊施設①忠魂碑

戦没者慰霊施設には、忠魂碑などの戦没者慰霊碑、
納骨が可能な忠霊塔、
戦没者の霊を祀る神社である招魂社・護国神社・靖国神社、
仏教的な方法で霊を供養する忠魂堂などがある。



戦没者慰霊碑

出現したのは個人碑であった。
戦没者個人碑で、日露戦争では未曽有の戦没者が出たため内務省は個人碑建設を規制するよう各道府県へ通達した。
膨大な数の戦没者個人碑が建設され、異様な光景が出現し、厭戦気分が広まることを危惧したものであった。

1906年、神社境内に「招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑と称するものの如き墓碑に紛らわしもの」の建設を許可してはならないとし、
碑はなるべく一ヶ所にまとめて建設するよう指示した。
その結果個人碑の造立は下火となり、「一市町村一碑」の戦没者慰霊塔の建設が推進され、多数の戦没者を合祀した忠魂碑が一般化した。






忠魂碑
 


(笠岡市神島 2020115撮影)

忠魂碑は、台石や基壇の上に大きな板状の石碑を据え、表面に「忠魂碑」「表忠碑」「彰忠碑」「誠忠碑」などと大書きし、その脇に題号揮毫者名を刻み、
裏面に多数の戦没者の姓名・官位・死亡年月日、造立者名、造立意趣などを刻むものが多い。

揮毫者は乃木希典をはじめとする元帥や大将など軍の最高幹部、造立者は尚武会や在郷軍人会が多く、
軍部とそれを支える在地組織が造立に深くかかわったことが知られる。
高さは2メートルを越えるものが主体で、5メートルに達するような巨大なものも稀ではない。
下から仰ぎ見るような位置にあることが特色である。
威圧感をもつ石碑が希求されていた。

しかも造立場所は、社寺の境内のほか、役場や学校など公共施設の付近が多く、戦没者個人碑にはなかった公共性が付与されている。
1930年代になると、学校教育のなかで忠魂碑への参拝などが行われ、忠魂碑が軍国主義教育の教材に供されうようになる。

1945年にGHQの指令により軍国主義的性格をもつものとして撤去されることになる。
大部分は地中に埋められた。
1951年のサンフランシスコ平和条約後に再度掘り出され、再建されたものが多い。
戦後新たに建設された忠魂碑の存在も少なからず知らており、忠魂碑の持つ複雑な性格をうかがうことができる。

コメント
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