しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

女の仕事着(モンペ)

2021年12月10日 | 暮らし
母が、たまに言っていたこと。
「あれには、くつれいだ」、が二つあった。
それが、着るものが”モンペ”になった時。
自分の身体の”生理”が終わった時。

母が嫁に来る(昭和17年5月)頃、ちょうど国民運動としてモンペの普及が図られた。
母は喜んで、持っている着るものをほどいて、モンペに仕立て直したそうだ。
母を思い出すとき、まっさきにモンペ姿が浮かぶ。
昭和17年頃から平成25年頃まで、家でも外でもモンペを着ることが多かった。



「奥津町の民族」  苫田ダム水没地域民族調査団  ぎょうせい 平成16年発行

女の仕事着

明治のころから戦前までは女も上衣のジバンとか腰着(腰切り)、下衣の紺股引を着用したのが特徴である。
腰着、尻切れジバンの上から、または長着を短く着付けて帯(半幅帯、ぼろ帯など)をして、前掛けで農作業をするのもあった。
第二次大戦中に、モンペが流行し、保温にも、ブト除けにもよく、作業効率もよいことからモンペの着用が定着した。

戦時中までは男女ともにジバンに股引で仕事をしていた。
終戦後モンペがはやり、ほどいたり、一反の布でモンペ2枚を縫った。
お腰し(腰巻き)は戦後まで使った。昭和になってパンツが使われ出した。
割烹マイカケはずっと前からあった。
戦争でよかったのはモンペくらいのもの。








「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

モンペが脚光を浴びるのきっけとなったのが日中戦争である。

「東京朝日新聞」(昭和12年9月27日)は、
「和服が非活動的なものであるとは、つとにいわれているところです。
そこで着物に変わるべき非常服として、カーキ色の国防服とか、スカートをボタン一つでズボン式に変える仕方とか種々考案されていますが、
最近活動に便でしかもとっさの場合にも非常服として役立つもんぺが各方面から推賞されて、
山村の野良娘の服装が一躍昭和の非常服として再認識されるに至りました」。

モンペの着用前に、和服に対する批判となって展開する。

帯がむだです。
袖は短くして。
日本婦人の服装が世界で一番危険な着物といわれている。

戦時下の女性の「作業服」としてモンペが役に立つ
「都会の婦人」も防空演習でモンペの便利さを認めた。
「服装改善」委員会は、戦時服としてのモンペの機能性の再評価した。



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学校農園・開墾地(金浦国民学校)

2021年12月10日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県笠岡市吉浜 
訪問日・2006年1月25日  

山陽本線の金浦小学校前は曲線をゆるめ、汽車のスピードを速めた。
それにより廃線跡が、小学校の農園となった。

終戦ごろには、追加して更に校庭も農園化されたものと推測される。


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

学校農園

前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭まで及び、学校農園と呼ばれた。
中等学校や青年学校では勤労動員されない、1.2年生の教練・体操用に必要な最低面積を残して、国民学校では初等科一人当たり0.8坪、高等科は一人1坪分を残して、すべて掘り返され畑になった。
岡山師範女子部は米5表、野菜を収穫、今年度は小麦を加える予定。
岡山一女は7反に小麦3表、野菜1.000円分を収穫。
清心高女は3反5畝からジャガイモ80貫、南京豆130貫、野菜を収穫。
市内14国民学校は甘藷・ジャガイモ・芋の栽培。
玉島高女の生徒は作地化するため馬糞拾いに精出した。
学校農園は敗戦後も食糧不足を補うために続けられたが、学校側が生徒に無断で収穫・処分することが多かった。

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