母が、たまに言っていたこと。
「あれには、くつれいだ」、が二つあった。
それが、着るものが”モンペ”になった時。
自分の身体の”生理”が終わった時。
母が嫁に来る(昭和17年5月)頃、ちょうど国民運動としてモンペの普及が図られた。
母は喜んで、持っている着るものをほどいて、モンペに仕立て直したそうだ。
母を思い出すとき、まっさきにモンペ姿が浮かぶ。
昭和17年頃から平成25年頃まで、家でも外でもモンペを着ることが多かった。
「奥津町の民族」 苫田ダム水没地域民族調査団 ぎょうせい 平成16年発行
女の仕事着
明治のころから戦前までは女も上衣のジバンとか腰着(腰切り)、下衣の紺股引を着用したのが特徴である。
腰着、尻切れジバンの上から、または長着を短く着付けて帯(半幅帯、ぼろ帯など)をして、前掛けで農作業をするのもあった。
第二次大戦中に、モンペが流行し、保温にも、ブト除けにもよく、作業効率もよいことからモンペの着用が定着した。
戦時中までは男女ともにジバンに股引で仕事をしていた。
終戦後モンペがはやり、ほどいたり、一反の布でモンペ2枚を縫った。
お腰し(腰巻き)は戦後まで使った。昭和になってパンツが使われ出した。
割烹マイカケはずっと前からあった。
戦争でよかったのはモンペくらいのもの。
「戦前昭和の社会」 井上寿一 講談社現代新書 2011年発行
モンペが脚光を浴びるのきっけとなったのが日中戦争である。
「東京朝日新聞」(昭和12年9月27日)は、
「和服が非活動的なものであるとは、つとにいわれているところです。
そこで着物に変わるべき非常服として、カーキ色の国防服とか、スカートをボタン一つでズボン式に変える仕方とか種々考案されていますが、
最近活動に便でしかもとっさの場合にも非常服として役立つもんぺが各方面から推賞されて、
山村の野良娘の服装が一躍昭和の非常服として再認識されるに至りました」。
モンペの着用前に、和服に対する批判となって展開する。
帯がむだです。
袖は短くして。
日本婦人の服装が世界で一番危険な着物といわれている。
戦時下の女性の「作業服」としてモンペが役に立つ
「都会の婦人」も防空演習でモンペの便利さを認めた。
「服装改善」委員会は、戦時服としてのモンペの機能性の再評価した。
「あれには、くつれいだ」、が二つあった。
それが、着るものが”モンペ”になった時。
自分の身体の”生理”が終わった時。
母が嫁に来る(昭和17年5月)頃、ちょうど国民運動としてモンペの普及が図られた。
母は喜んで、持っている着るものをほどいて、モンペに仕立て直したそうだ。
母を思い出すとき、まっさきにモンペ姿が浮かぶ。
昭和17年頃から平成25年頃まで、家でも外でもモンペを着ることが多かった。
「奥津町の民族」 苫田ダム水没地域民族調査団 ぎょうせい 平成16年発行
女の仕事着
明治のころから戦前までは女も上衣のジバンとか腰着(腰切り)、下衣の紺股引を着用したのが特徴である。
腰着、尻切れジバンの上から、または長着を短く着付けて帯(半幅帯、ぼろ帯など)をして、前掛けで農作業をするのもあった。
第二次大戦中に、モンペが流行し、保温にも、ブト除けにもよく、作業効率もよいことからモンペの着用が定着した。
戦時中までは男女ともにジバンに股引で仕事をしていた。
終戦後モンペがはやり、ほどいたり、一反の布でモンペ2枚を縫った。
お腰し(腰巻き)は戦後まで使った。昭和になってパンツが使われ出した。
割烹マイカケはずっと前からあった。
戦争でよかったのはモンペくらいのもの。
「戦前昭和の社会」 井上寿一 講談社現代新書 2011年発行
モンペが脚光を浴びるのきっけとなったのが日中戦争である。
「東京朝日新聞」(昭和12年9月27日)は、
「和服が非活動的なものであるとは、つとにいわれているところです。
そこで着物に変わるべき非常服として、カーキ色の国防服とか、スカートをボタン一つでズボン式に変える仕方とか種々考案されていますが、
最近活動に便でしかもとっさの場合にも非常服として役立つもんぺが各方面から推賞されて、
山村の野良娘の服装が一躍昭和の非常服として再認識されるに至りました」。
モンペの着用前に、和服に対する批判となって展開する。
帯がむだです。
袖は短くして。
日本婦人の服装が世界で一番危険な着物といわれている。
戦時下の女性の「作業服」としてモンペが役に立つ
「都会の婦人」も防空演習でモンペの便利さを認めた。
「服装改善」委員会は、戦時服としてのモンペの機能性の再評価した。