源平時代に幾多の合戦で、勇猛で名を馳せた斎藤実盛。
最晩年は白髪を黒く染めて出陣した。
合戦で馬が田んぼの稲株につまずき倒れ、そこで討取られた。
首実験後、木曽義仲は実盛の甲を多田神社に奉納した。
全国各地には今も、田んぼの虫送り行事”実盛さま”が伝わっている。
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「平家物語」 世界文化社 1976年発行
実盛
武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、
ただ一騎、
引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。
木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ
「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。
さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。
「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」
駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。
「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。
幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。
今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。
樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。
樋口を呼べ」
という、樋口次郎は一目見るなり、
「ああいたましい、たしかに斎藤別当実盛でございます」
と、涙を流した。
樋口次郎はなおも落涙しつつ、
「この首は白髪を染めております。
ためしに髪を洗わせてごらんなされませ」
義仲が、その首を洗わせてみると、なるほど白髪になってしまった。
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旅の場所・石川県小松市上本折町・多太神社
旅の日・2020年1月28日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行
多太神社
小松駅からバスで10分ほど北西に行った小松市上本折町にある。
芭蕉はこの神社で、平宗盛に仕え、木曽義仲追討の軍を進めたときに斎藤別当実盛がかぶった甲に接し、
「むざんなや・・・・」の句を詠んでいる。
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「芭蕉物語・中」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行
小松というところに来たが、小松とはかわいらしい名である。
その名にふさわしく可憐な松が生えていて、
その小松に吹く風が、その辺にある萩や薄をなよなよとなびかせている。
芭蕉はいたく旅情をそそられたのである。
多田神社に立ち寄り、次の句を奉納した。
むざんなや甲の下のきりぎりす
「甲」は多田神社へ奉納された実盛の甲である。
芭蕉はその甲を実際に見て、その悲壮な最期を思い浮かべたのである。
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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎 筑摩書房 2022年発行
むさんやな甲の下のきりぎりす
石川県小松の多太神社にある斎藤別当実盛の兜の下で、蟋蟀(こおろぎ)が秋の哀れを誘うように鳴く。
神社境内でみつけたきりぎりすを謡曲「実盛」の悲劇に重ねた。
小松の多太神社は格式の高い神社で、曾良が持参した『神名帳抄録』に記載されており、 最初から旅の予定に入っていた。
多太神社にある斎藤実盛の兜は、芭蕉がこの句で追悼、 詠嘆したことで一躍有名になった(いまは行方不明)。
斎藤実盛は木曾義仲軍と闘って討たれた老武将である。
義仲は幼いころ上野国で実盛に命を救ってもらった恩があった。
討ちとられた実盛の髪は白髪を黒く染めており、義仲はそれを見て号泣したという。
その故事が謡曲「実盛」となり、それを念頭において、芭蕉は「むぎんやな...」の句を詠んだ。
多太神社は荘厳な石の鳥居の横に「式内社」の石碑が建つ。
鳥居の左下に、黒石で作った兜のレリーフが奉納品として飾られている。
境内には竹垣に囲まれて「むざんやな......」の句碑があるが、摩耗してほとんど読むことができない。
境内はしんと静まりかえり、謡曲「実盛」の故事を記した史跡保存会の看板がある。
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