芭蕉は那谷寺(なたでら)を訪れ、
句に那谷でなく石山寺を詠み、いっそう那谷寺をひきたてた。
学説では、石山寺でなく那谷寺の石山が多数派であるようだが、
とにかく那谷寺の奇岩は白く晒され、境内をとりかこむようにつづいている。
みごととしか言いようがない。
芭蕉は秋の風の頃訪れたが、いちばん見事な時期は紅葉。
奇岩の周辺はモミジ一色で覆われる。
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旅の場所・石川県加賀市「那谷寺」
旅の日・2020年1月28日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行
八月五日に芭蕉は曽良に別れ、北枝とともに生駒子と出会うために小松に戻った。
この前は小松から北陸道を動橋に出て、山代から山中に入ったが、
今度は山代から別れて那谷に参詣し、それから小松に出ることにした。
那谷寺は真言宗で、世に那谷の観音という。
観音堂は岩窟内にあって岩壁に寄りかかるように建っている。
萱葺の小堂で、前に舞台があり、自然石を刻んで階段にしている。
養老元年(七一七)に僧泰澄の創建と伝えられ、自生山岩屋寺と号した。
その後花山法皇が三十三箇所の観音を参拝なされたのちに、
ここに大慈大悲の観世音菩薩の像を安置され、那智と谷汲から二字を分け取って那谷寺と命名されたということである。
那智は三十三箇所の第一番目の札所である紀州の那智山青岸渡寺であり、 谷汲は最後の札所濃州の谷汲山華厳寺である。
第六十五代花山天皇は在位三年で、寛和二年(九八六) 六月ひそかに禁中を出られ、東山の花山寺で落飾され、
叡山、熊野、 書写山などで仏道を修行された方である。
山はそれほど高くもないし深くもないが、すこぶる閑寂である。
しらじらと風に曝された奇岩怪石が多く、 老松が生え並び、風景がすぐれているばかりでなく、
霊場としてまことに殊勝な場所である。
芭蕉はこういう句をよんだ。
石山の石より白し秋の風
石山といえば近江の石山を指すのが当時の通念であった。
芭蕉も那谷の山をみて、すぐに近江の石山を連想した。
そしてこの那谷の石は近江の石山の石よりも白いと直観した。
そして「石山の石より白し」と、なんのためらいもなく表現したのである。
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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎 筑摩書房 2022年発行
石山の石より白し秋の風
那谷寺は養老元年(七一七)に開基された真言宗の古刹で、神仏混淆の寺である。
古くはイワヤ (岩屋寺と呼ばれた。白山信仰の拠点となった。
南北朝時代に足利尊氏軍の城塞となり、新田義貞軍が攻めこみ、寺の堂宇はことごとく焼失した。
多くの兵士が没した寺である。
それを加賀藩三代藩主前田利常が再興した。
小松に隠居した利常は、
寛永年間に岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造った。
山門を入ってすぐ左手にある金堂華王殿は平成二年に再建された鎌倉時代建築様式の塔頭である。
ここに祀られている十一面千手観音像が艶っぽい。
重要文化財がたち並ぶ境内のなかにあっては新らしい仏像だが、
典雅なる品格、慈愛あふれるまなざし、白山の神秘、優美なる肩、光かがやく光背。
参道を進むと、左手に白い岩肌があらわれる。
これを奇岩遊仙境という。
そそりたつ岩はヒマラヤの岩窟に似て、人間の顔にも見え、仙人が棲む岩山にも見える。
ここには生と死の宇宙がある。
海底噴火した岩山が、水の浸食によって、このような奇岩となった。
岩壁沿いに細い石段がつながり、朱塗りの鳥居がある。
芭蕉が訪れた元禄二年(一六八九)は、利常によって復興されてから五十年近くの年月がたっていた。
芭蕉は那谷寺という名称に興味を持ち、「花山法皇が、西国三十三ヶ所の巡礼を終えたのち、
那智山(第一番)の那と谷汲山(第三十三番)の谷の二字を取って命名した」と『ほそ道』に書いている。
「奇石がさまざまの形となり、松を植え、萱ぶきの小堂が岩の上に造られている」と絶賛した。
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