小学校の4年生か5年生の頃だたと思う、福山の駅前通りに交通信号機が出来た。
それが道路横断の信号機を見た初めてだった。
前を見ると赤、横を見ると青。
道とは歩くところと思っていたが、”停まる”ことも必要のようで、
何をどうすればいいのか解らず、一瞬不安になった。
結局、人の後をついて渡ったのをよく覚えている。
知られているように、
「人は右、車は左」は昭和22年に制定されたもので、
戦前には道路交通法もなく、車も数少なく、
人の一生は信号機を見ずに終えるのが普通だったのだろう。
警官は戦後こそソフトになり「お巡りさん」とも呼ばれるが、
戦前の「巡査」は権威を背景に居高くしていた。
警官が戦前偉ぶっていた時代、
商都大阪といえども、交通信号も滅多にない四つ角(今は交差点という)で、
道を渡ろうとした男性と巡査がけんかになった。
ところが、捕まえた男は兵隊だった。
・・・
陸軍は”皇軍の威信”にかかわると逆上。ついには天皇の耳にまで届いた。
・・・・
実録・天六交差点の対決(昭和8年)
「NHK歴史への招待23」 鈴木健二 NHK出版 昭和57年発行
(中村一等兵)
昭和8年6月17日、北大阪の通称天六交差点で小さな事件がおこった。
信号を無視しして渡ろうとした男に、巡査が注意した。
男は「憲兵以外の言うことはきかぬ」とけんかとなった。
男は陸軍第八聯隊の一等兵だった。
軍は、
「皇軍の威信に関する重大問題である」と警察に陳謝を求めた。
警察は、予期せぬ軍の強硬姿勢にがぜん緊張し、軍の発表から二時間半後に
「兵隊が私人で通行している時は、一市民として従ってもらいたい」と発表した。
こうして軍と警察は真っ向から対立することになった。
事件から9日後、
大阪府知事と第四師団参謀長が会談、一度、二度・・・決別。
一兵士と一警察官の争いは、第四師団と大阪府の対立に発展し、
「ゴーストップ事件」と呼ばれた。
(戸田巡査)
・・・・
当時国際連盟脱退などを通じて軍は、勢力を急速に台頭させ、
横暴ぶりを露骨に現わし始めていた。
一方、警察は特高を中心として、戦争に反対の共産党員を検挙するという実績をあげ、その力を国民に示していた。
・・・・
泥試合になっていった。
大阪憲兵は、巡査の尾行をつけ、身辺調査を始めた。
戸籍と名が違う、「府は無責任だ」。
警察は一等兵の過去を徹底調査、
「計7回の交通違反をしている」、
しかし馬糞の処理を怠ったとかいうささいなものばかり。
・・・
事件から一ヶ月後、ついに訴訟となった。
師団は憲兵隊へ告訴。瀆職(とくしょく)、傷害、名誉棄損などの罪。
市民の関心の高まりは、時代を反映してか、軍を応援するものが圧倒的に多く、
警察側には批判的な声が相次いだ。
・・・
事件から三ヶ月後、
大阪地方裁判所から第四師団および大阪府警に意見書が出された。
互いに刑事責任があり、喧嘩両成敗の判断を示した。
しかし、軍は激しく反発。謝罪の要求を崩さなかった。
暗礁に乗り上げた。
・・
10月半ばすぎ、
陸軍特別大演習が福井県で始まった。
天皇は荒木陸相に、
「大阪にゴーストップ事件なるものがあるそうだが、
あれはどうなったか?」
と下問があった。
陸相はただちに動き、急転直下、円満解決を見るに至ったのである。
第四師団参謀長と、
大阪府警察部長が、
互いに挨拶を交し合ってすべて水に流そうというものである。
そして、お互いに抱き合って終わった。
(和解する県警部長と師団参謀長)
(何も知らされず握手する、戸田巡査と中村一等兵)
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それ以来、
警察の軍人に対する態度は消極的となった。
軍人や軍隊に手をつけることは我が身が危ないと身をもって知ったのである。
・・・
陸軍大演習がらみで解決(?)は、煙突男も知られている。
煙突男
川崎市の紡績工場の煙突に男が登った。
煙突の上で5日間過ごし、群集・見物の1万人が見上げ騒いでいた。
その時期に、
昭和5年陸軍特別大演習(福山市、浅口市ほか)があり、岡山に向かう天皇に汽車の窓から騒ぎを見られたくない関係者は、
男の要求をのんで、天皇が通る前に煙突からおろした。
男は2年後、山下公園で遺体で発見された。警察は「事故死」、世間では「拷問による虐殺」と伝えられる。
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