かつて中国地方の山間部の大産業であった製鉄は大正時代頃までつづけられた。
「たたら」が有名だが、「かんな流し」や「燃料炭」の作業も負けず厳しい。
言ってしまえば、先人の日常の仕事や暮らしは山に住もうと、里に住もうと、町に住もうと皆食べて生きることだけで精一杯だった。
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明治初年において新庄村は「山はわいていた」。
根雨の近藤氏が経営していた。
農家出身の「鉄山者」が伯耆・備中・備後から妻同伴で来ていた。
狭い山間のたたら集落も炭材の枯渇とともに廃墟となっていった。
急速にでき、急速に消えていくのが常である。
鉱山者の多くは九州の八幡あるいは大阪の鉄工所へと移動していった。
「瀬戸内の風土と歴史」 山川出版社 昭和53年発行
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製鉄業の発展は、近世封建社会では領主の統制下でだけ許された。
領主統制下におくことは、無制限な鉄穴流しは、下流平野地域に洪水の危険をひきおこし、農業生産を破壊するためである。
雪深い山間部は、農業生産力は低く、農業収入も少なく、到底農業だけでは生活していけない。
ここに百姓を居つかせるには、どうしても副業が必要である。
農業は春から秋へ、秋から春の期間は製鉄業に従事するというかたちが、こうしてつくられた。
移住してきた鉄山労働者にも、家屋敷も貸しつけられ、春から秋には農業にあたったのである。
耕地ともに山林や家屋敷をワンセットにした小作制度がうみだされた。
「島根県の歴史」内藤正中著 山川出版社 昭和44年発行
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明治になると、洋式製鉄に押され、大正の末年にはたたらの火が消えてしまった。
炉の両側に天秤ふいごと呼ばれるふいご台がある。
番子(ばんこ)と呼ばれる男が足を踏んで炉に空気を送るのだが、灼熱の炉の脇での作業だけにかなりの重労働だ。
そこで出雲では、
「乞食になっても番子になるな」といわれていた。
たたらの製鉄方法は、
炉のなかで木炭を燃やし、約30分ごとに木炭と砂鉄を少しずつ加えてゆく。
炭と砂鉄の投入の仕方については秘伝があるという。
炉の中で溶けた不純物(鉄滓)は炉の底部の穴から溶岩のように流れ出し、鋼になる「 鉧 ( けら )」が中に蓄積されていく。
これを不眠不休で三昼夜続け、四日目に炉をこわし鉧を取り出す。
このサイクルは「一代(ひとよ)」と呼ばれている。
それまでに費やされる、
砂鉄は約10トン、
木炭は約12トン。
玉鋼はわずか約800キロが出される。
奥出雲たたらの道を往く 「歴史と旅」秋田書店 昭和59年12月号
「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
たたら唄
山を掘り崩し、水路に流して砂鉄を選び分ける。
粘土で築いた炉の中に木炭といっしょに入れて、ふいごで送風して熱し、
鋼や鉄を精錬する。
たたら吹きといい、
風を送るのに、天井からぶら下がった綱をもってふいごを足で踏むのであるが、
その時の唄がたたら唄(番子唄)である。
番子というのは、ふいごを踏む職人のことである。
二、三人ずつ三交代で三・四昼夜、精錬が終わるまで踏みつづけるのである。
単調でしかも重労働であった。
西粟倉村
たたら番子はヨー 乞食より劣り
乞食ゃ夜寝てヨー 昼また稼ぐヨー
新庄村
番子ばんことヨオ
あほうでもやれる
片目あるなら あほでもやれる
新見市
親父炭焼き わしゃ番子
ともに火を吹く火を送る
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撮影日・2020.8.19 島根県雲南市吉田町 (奥出雲)
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