しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

集団就職①就職列車

2020年11月24日 | 昭和36年~40年
「男船」を歌ってスターになった井沢八郎は、三菱農機のラジオ番組「田園ソング」から「あゝ上野駅」を出して、彼の代表曲になった。
それは管理人が高校一年生の年だった。
集団就職の人たちと世代が重なるが、中学校の同級生で就職する人が、「集団」で、ということはなかった。

いったい集団就職とか、就職列車とはどんなものだったのだろう?


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「懐郷」 熊谷達也著 新潮社 2005年発行 より転記

鈍色の卵たち

貴子が国語の新任教諭として雫石中学校に赴任した二年前、昭和36年度から労働省の職業安定政策が大きく変化した。
中学校独自の就職紹介が実質的に禁止され、すべて職業安定所を通すようになった。
つまり職安を差し置いての教員による職場訪問は、就職前もあとも、おおっぴらにはできなくなったのである。

聡は当初から気になる生徒であった。
高校への進学を最初からあきらめていた。
聡は貧しい農家の家で、三男坊だった。
中学卒業後は就職、と生まれた時から決まっていたような境遇である。
進路指導では、親と本人の希望通りに、職安から回ってきた求人票を前に話を進める事しか貴子にはできなかった。

貴子が探していたのは、定時制高校への進学が求人条件に謳ってある企業だった。
ここ数年、以前には考えられなかったほどに中卒者を求める企業が増えていた。
求人倍率は三倍以上になっている。
墨田区の金型工場に決まった。

三月末の盛岡はまだ寒い。
ふだんは薄ら寒い盛岡駅のホームも、あの日だけは人いきれにむせ返るほどに、人また人であふれ返っていた。
盛岡市内と近郊の中学校だけでなく、県内あちこちから、集団就職の生徒たちと見送りの家族がいちどに集まるからだ。

引率する生徒たちと一緒に列車に乗り込んだ貴子は、窓の外を見て声を詰まらせた。
幾重にも重なり、鈴なりになった人々が、別れる子どもに向けて懸命に手を振っている。

やがて臨時列車は、静かにホームを離れた。
しばらくすると、出発の時とは違う泣き声、嗚咽を噛み殺す啜り泣きの声が、あちこちから聞こえだした。
ただただ静かに泣きじゃくるばかりである。
まだ十五歳の子どもたちだった。
どんなに心細い思いをしているかと思うと、慰めの言葉をかけることするためらわれた。
ひとしきり泣き止むと、今度は持たされた弁当やお菓子を黙々と食べ始めた。
食べることで涙をこらえるしかないのだろう。

盛岡から上野まで、今の急行列車なら九時間半で行けるとことを十八時間はかかったはずだ。
集団就職列車は臨時仕立てであるため、定期便や貨物列車の通過待ちで、しょっちゅう停まってばかりいるからだ。
生徒たちの詰襟やセーラー服の胸には、番号札がつけられていた。
たとえば「隅田12番」というように、受入れ先の職安の名前と整理番号を書いた札を、名札のかわりに胸につけることになっていた。

長旅で疲れきった子どもたちが上野駅に降り立つと、名前ではなく番号で整列させられ、管轄の職安職員が引き取って就職先へと連れて行かれるのである。
金色をした卵にはどうしても見えない光景であった。
貴子たち引率の教員は、黙って見送るしかなかった。
無理に笑顔をつくって手を振るしかなかった。
あまりにあっけない、上野駅での子どもたちとの別れだった。



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