しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高校の時あった店

2021年01月18日 | 昭和36年~40年
笠岡の映画館


笠岡中央劇場
中央劇場の前には斎藤のラーメン屋があった。土曜日の午後は高校生であふれかえっていた。「アラビアのロレンス」「007」の時などは格別。入りきらない感じだった。

高三の秋の日、クラスメート達と3~四人二時間目が終わり学校を出て中央劇場にいった。時間は午前10時半。第一回目の上映が始まる。弁当を暗闇で食べる。三本建て,が終わるのが午後三時くらい。ちょうど学校が終わる時間、で、家に帰っていた。そういう事が何回もあった。

土曜の午後あれほど混雑する中央劇場だが、普段の日はまったくの貸切上映だった。その鮮明な驚きと、今仲間だったk君どうしているんだろうかと気になる。


セントラル劇場
セントラルは郵便局の裏、西本町にあった。結果的に(僕が昭和57年笠岡にUターンした当時)最後まで営業していたのではないだろうか。
主に日活の青春映画を上映していた。


大和座
高校一年の頃、歌手新川次郎が歌謡ショーにきた。授業中、今日は新川次郎が大和座に来ているのか。と、思いながら授業受けていたことを思い出す。
映画は東映が主だった。
姉といっしょに見に行った本間千代子の「あの雲に歌おう」中村錦之助の「徳川家康」植木等の「ほらふき太閤記」のことはよく憶えている。笠岡の映画館・・でも・・・が、全国封切りというふれこみだった。
笠岡高校では全員で「東京オリンピック」を見に行った、こともあった。椅子にすわろうとしたらココはなになにちゃんの席だからとイス取り女生徒にいわれた。


金星劇場
この映画館は今でいうポルノ、当時でいうエロ映画をしていた。
同級生で優等生のK君が「兄貴といっしょに”いも侍かきえもん”を見にいったら、へんな映画もしだした」と言っていたが、アレほんとだったんだろうか?今でも思い出す言葉。
武智鉄二の「黒い雪」、同級生のFは「岡大生じゃ」といって入館したらしいが真意のほどはしらない。
高校卒業後、まもなくこの映画館はストアになった。今その跡形は全く無い。


2001年6月5日


ジョギングついでに高校時代の映画館跡地を走ってみた。2001年6月10日

大和座・駐車場になっている。土のまま、一部砂利砕石敷。映画館は跡形もないが付近の町風景は全く変わっていない。
セントラル・建物はほぼ原型のまま。下にコンクリートを敷き駐車場になっている。路地、壁、高校当時と同じ。
中央・トマト銀行、数年まえまでは斎藤ラーメン屋の建物もあったが道路拡張により完璧に過去のものになっている。
金星・どこにあったわからない。多分現在道路ぎわの更地駐車スペースのところだろうか。


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本屋


くりお(栗尾書店)

「くりお」はスサキ通りにあった。書店の奥につるつる親父が店番をしていた。

当時は笠岡一の本屋であった。今はコンビニの本の量と変わらない。「本屋」をしているというだけ。


いけだ(池田書店)

大仙さんの隣、昔も今もほぼ同じ。笠岡の本屋で僕の高校当時とほとんど変わっていない。
高校の頃はココでよく立ち読みをしていた。


にしな(仁科書店)
笠高・笠商から最も近く、笠商の玄関口。
ひらたく本を並べていた。ココでもよく立ち読みをしていた。
今はシャッターを降ろしたまま。で、もうだいぶんたっている感じ。



長鋪
仁王堂にあった。(自分にとっては)立ち読み専門の店。
老人夫婦が店番をしていた。
高三の時、高二の後輩が漫画本をみていたのにビックリしたことがある。
僕にとってはマンガは小学生までのもの、という概念があったので。
そのマンガは「巨人の星」。


旭書店
スサキ通りに高二か高三の頃できた。本屋にはドアを開けて入る店だった。
その店の二階は喫茶「嵯峨」ができた。


岡本
本通りの本屋。
全焼したスーパーの隣にあった。たまに行っていた。

2001年6月6日



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喫茶店



「珈琲園」
笠岡一の喫茶店。(今はないけど)
西本町冨士駐車場の二階。

高校三年になったばかりの頃か、高二の終わりか。神島出身の一年先輩を同級生のIくんたちと三人で笠岡駅に見送った帰り「珈琲園」行った。
珈琲園に行く初めてであった。し、僕にとって初めての喫茶店だった。珈琲一杯60円だった。当時支那そばも60円。それなら腹の太る支那そばのほうがいいと思ったりもしたが、喫茶店にはこれを機に行く事もあった。

大学生の頃は帰郷して行く店は①珈琲園②嵯峨③Aワンだったかな?


嵯峨

高三の頃から出来た。

本屋の二階だったので気軽に入れた。
大学生の頃はもう高校生のほうが幅をきかせていた。
逆に言えば、社会人はいなかった。


Aワン
本通りと駅前の金光眼科の通りが交差する、笠岡一の場所にあった。が高校生の時は行った記憶は無い。大学生になってから。


駅前広場
本通り、Aワン近く。ココも大学生になってからいった。


珊瑚
仁王堂にあった。はいった事は一度も無い。


2001年6月6日


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学校の近くに


めがねや

時計とメガネを扱う店が学校から降りたすぐ下右隣。に店があった。
店の名は覚えてない。
一度くらいは時計の修理をしてもらった事があるような、ないような。


東森印刷



ラーメン屋

T君が連れていっていくれた。ラーメンは”斎藤”しか頭になかったが、結構うまい店だった。

この店も僕が高校当時と全くかわっていない。今もあの味で営業している。


2001年6月6日



ジョギング中に笠岡高校の坂道をあがる。右手に「千鳥会館」が工事中。同窓会の会館だが、はたして同窓生が使うのだろうか?
メガネ屋は・・無くなっていた。坂道の拡張で撤去したようだ。
東森印刷・・・看板はないが立派な自宅がそのまま。
ラーメン屋・・・変わらない。
ツカモトラジオ店・・「ラジオ店」の名前も変わらずにある。
平井サイクル・・これもかわらず。
その他・・笠岡高校付近はあんまり30年以上前とかわっていない。
2001年6月9日朝7時ごろのこと。


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スサキ

笠岡一の通りだったが今は何もない。

いよや、森谷歯科、小見山文具、田林、・・・看板だけがなつかしい。

栗尾もない。

立派になったのは通りの舗道と、(官費の)建物だけ。

大仙さまの時以外この通りを歩く、歩こう、という人はいないだろう。

2001年6月10日



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本通

本通は広銀(ニ~三年前から笠岡支店から出張所に格下げ)から東に続く。
途中、昔大黒屋があったところから東へ50メートルほどはアーケードがある。破れたものだが。

それが終わる所に”魚宮”がある。仕出し・魚屋の”魚宮”。



2001年6月10日

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駅前


高校の頃、笠岡駅といえばいつもA組の若いモンが一人二人たむろしていた。


駅前には木造三階建ての旅館があった。井笠バスの事務所が正面。

駅前にはタクシーが二三台。
バスが三四台、で笠岡駅前はもう満杯。

駅前は狭いが人があふれていた。

2001年6月10日



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僕ら、フォークダンスの手をとれば


高校一年生の時、初めてフォークダンスを踊った。

まあるく輪になって二列、男子・女子と。
手と手が触れるのではなくて、指と指が触れていた。

それだけでもういっぱいだった。少年の心は。
指と指が触れる触れない、その寸前の接触で踊っていた。





指が触れるだけで、僕の指が吸い込まれるような感じの手の人がいた。

指が汗でぬれてしまった同級生の指があった。

触れるのではなくて握るのだ、とばかり握る女学生もいた。



高校は女性の比率が高く、女性が男性側に回らなければダンスができなかった。
フォークダンスは右に回り、今度は左に回り目的の女性の手に触れるのはなかなかであった。



2002年3月12日



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