白いおコメのご飯を食べるのは、貧しい日本人にとって長年の夢だった。
私も、そうだった、
「コメのメシが食いたい!」と思っていた。
池田勇人大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」は政治史に残るほど有名だが、
ところが母の論では、
「貧乏人は米を食え」の方が安くつくそうだ。
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畑作
江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。
野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。
長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。
工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
麦飯
(母の話)
だいたい7:3くれいなら食べられる。
ボニ・正月・祭りが米の飯。
家を建てるとき(昭和35年頃)、たましまん(玉島の母の実弟)来て「あんた方にゃ、まだ麦飯をくようんか」いわれた。
よお、おべぃとる「麦飯がめずらしいから食べさせぇ。」いわれた。
あっこらは米の飯ばぁじゃろう。
そおすりゃあ、夜燈の親類の野々浜のデショがあろう、あっこに田圃がえっとある。
「麦飯は二杯も三杯も食べにゃあ、腹がふくれんけど。米の飯は一杯たべりゃぁある」
ゆうちゃったけど、ほんとじゃった。
米は強いけぃ一杯たべりゃあ、ほんに腹がふくりょうた。
結局麦は損じゃったのう思うた。
夜燈のおばさんのお母さんがようたが(米の飯を食べることは)ほんまじゃったなぁ、といつも思う。
(桃などの)袋掛けに来てくりょうちゃた。あわぁな事をよおるが思うて聞きょうたが、ほんまじゃった。
麦飯は腹へもたれんから何杯も食わんと、食べたようになかった。
2001・1・1
麦まぜ
二分か三分。
二か三は麦の方じゃ。残りは米。
麦を混ぜればくさい。
年よりは,麦をまぜたほうが、やわしいゆうてようくようた。混ぜてくれぃ、ゆうてようた。
他に米に混ぜるゆうたら、大豆くれいじゃ。
飯は朝たきょうた。朝と晩。昼は,朝炊いたのを。晩は炊いたのと,昼の残りを。
おひつにいれといて。昼は冷や飯じゃ。
”うむし”やこ,した時にゃ、配りょうた。隣やこに。
談・2000/1/9
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。
米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。
糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。
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中学校の3年生の頃、家はコメの飯になった。
弁当箱を開けても、麦飯が何粒か、見えることは無くなった。
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