しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月8日「福山空襲」 ②届かない高射砲、被害を増した防空壕、退去を許さぬ、防空の体制ができていった

2021年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)
高射砲は敵機に届かず、消化は焼夷弾を塗れた筵で消す、貧弱な防空壕で身を護る、逃げずにバケツリレーに参加する、逃げた人はコメの配給を止める等の防空体制が確立されていった。


「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

防空体制(一)
米軍による本土空襲が活発化した昭和19年11月以降に、
市民を対象として設定された「避難所・救護所・炊出計画」は、
市内各学の町内単位に草戸稲荷・明王院一帯をはじめ5地帯を避難場所に指定し、
避難場所に救護所・炊出所を開設することとしている。


防空体制(二)
町内会長は防空問題の責任者とされ、昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、
20年に入ると、
「個人かもしくは共同で一軒に一ヶは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。
市内の空き地に防空壕がもうけられ、壕のうえには土が二尺ほど盛られていた。
芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつもつくられ、
周辺の山はさらに大規模な横穴が掘られて、空襲の際に避難することになっていた。


昭和20年5月~6月に入ると、市幹部は「軍隊を持つ福山市としては空襲は必至」と認識するにいたる。
このころ民家にも屋根に迷彩をほどこし、土蔵・塀の白壁は墨やコールタールを塗って、
上空からの発見を防ごうとした。

空襲から家財を守るための荷物疎開も縁故・知人をたよっておこなわれた。
その状況につき、
「殊に大峠街道は連日連夜自動車、荷車・乳母車あるいは背負いあるいは堤げもってつづきたるものなり」
といわれている。


軍の防空体制は、
誠之館中学校のグラウンド、廃川地(現競馬場)、第41聯隊などに高射砲・高射機関銃が据えられていたが
台数も少なく、性能的にも劣るものであった。
大津野の海軍航空隊には練習用の小型機(通称赤トンボ)が数機あったが、
グラマンの攻撃を避けるために解体し、真鍋島・神島などに分散疎開する始末であった。


防空体制(三)
昭和20年6月に入るとグラマンが大津野の海軍航空隊を攻撃した。
4機編成のグラマンは仙酔島方面から海面すれすれに目標を直撃し、
さらに急上昇・急降下しつつ銃撃を繰り返した。
白い弾跡が2本、しぶきをあげつつ海面を走る。
銃撃が終わったグラマンは、使用済みの薬莢をがらがらと捨てながら、ゆうゆうと神島方面に引き返した。





「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 

防空法
昭和12年「防空法」が制定された。
”避難については原則として非難せしめざるよう指導する”と明確に定めた。

昭和15年内務省は指導方針を定めた。
「特に認められたもの」以外は退去・非難させず、国民各自が「持ち場を守ること」が指導方針とされた。
「市民は空襲から逃げるな」という方針が確立されたのである。


昭和16年「逃げずに火を消せ」へ改正された。


(燃え盛る火の海で、筵で火を消した人は誰一人いなかったと思える)



空襲は怖くない、消化は簡単、防空は「国民の義務」 
(昭和16年~昭和18年)

「国民防空訓」--避難、退去は一切許さぬ

政府では国民の退去を認めない。
したがって勝手に退去したものに対しては食料等については責任を持たぬ。

だから国民は有事の際自分の家、自分の町、自分の都市は死守せねばならぬ。


貴族院・水野甚次郎議員(=呉市長=五洋建設社長等)の異論

「私は先般の防空演習をみましても”お祭り騒ぎ”の感があるのであります。
あの小さなバケツで水をそばにもっていくような余裕は果たしてあるのか?
火が消しえるのであるか?
全焼を待つよりほかに仕方がないのじゃないかと思うのであります」
内務省
国民がさらなる「熾烈の責任感と、強固な団結」を強めるよう求めた。
各人の防空精神で補えという。





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