しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争と四十一連隊

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行


歩兵41連隊跡地

(2016.5.15 福山ばら祭り)






日中戦争と四十一連隊

昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊(連隊長・山田鉄二郎大佐)も応召することになった。
31日夕刻、福山駅から出発していった。
山田部隊3.000人は12月上旬から南京総攻撃(いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった)に参加して中国軍に大損害を与えた。
このころの山田部隊は進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

南京で正月を迎え、4月から徐州会戦に向かった。
5月19日徐州占領した。

こののち日中戦争は泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍ゲリラに悩まされながら、
軍の作戦が北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ごろまで、
まったく勝つ見込みもないまま中国各地を転戦されられた。

福山では四十一連隊勝利の報がもたらされるたびに、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。

戦死者は「男子の本懐、聖戦の死」「護国の人柱」「壮烈・名誉の戦死」などと言われ、
しかも遺族は「本人も満足でせう」、「肩身が広い」、「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。

遺族への「配慮」
市民の戦闘意欲を盛り上げるために、戦死者や遺族は外見上きわめて丁重に扱われた。
その一つに市町村葬がある。
市町村長を葬儀委員長に、吏員・教員が委員となり、
陸軍大臣・師団長・知事(すべて代理)をはじめ多数の「名士」の来賓のもと葬儀は市町村をあげて「盛大」に営まれ、
小学生も参列した。

・・・・・・・・


地方事務所の設置

昭和17年7月1日、政府の意図を地方によりいっそう徹底させ、かつ行政を敏速に処理するために、
地方官管制の一部改正によって、県の補助行政機関として、県下12か所に地方事務所が設置された。
かつての郡役所以上に大きな権限をもち、戦時体制下の統制強化に大きな役割を果たした。
翌18年には、市制・町村制の全面的な改正によって部落会・町村会を法制化して末端の行政体にし、市町村長に指示権を与えこれを監督官庁が上から統制するすることにした。
その結果、市長村は自治権をいちじるしく制限され、中央の強い統制下におかれることになった。


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