対米戦争に勝つことはできないのを知っていながら開戦した指導者たちは、
相手を見下すことで国民を鼓舞した。
それが、
「大和魂」と「神風」。
国民は信じた。
大和魂で勝つ!最期の最期には神風が吹く!
まさに、一億総発狂とも言える戦争だった。
前線に武器なく、銃後に食なく、最後には吹くと言われた神風は、寝言のたぐいだった。
”一億総特攻”とか”一億総玉砕”がなかったのが、せめてもの幸いだった。
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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
それまで国民は、ひたすら指導者を盲信し、いつかは「日本精神」が勝つと信じて、戦争の遂行に全力をあげてきた。
いまや国民は、心身ともに精も根も尽きはてていた。
多くの国民が住むに家なく飢餓線上をさまよい、誰もが茫然自失、放心状態におちいっていた。
「神風」は最後まで吹かなかったのである。
歴史始まって以来、日本ははじめて被征服国となった。
日本人は、容易ならざる前途に直面して身のすくむ思いだったが、
天皇みずからが述べたように「耐え難きを耐え」るほか、なすすべはなかった。
アメリカの占領とその指導監督の下におかれた7年近い歳月は、
日本のみならず世界にとってたしかにかけがえのない体験となった。
一つの先進国が相手先進国の欠陥をこれと見定め、内部からその改革をはかるというのは、前代未聞の試みであった。
日本人は、自分たちが西欧の圧制をはねのけるアジアの解放者として歓迎されるどころか、
中国、朝鮮、フィリピンのいたるところで激しく憎悪され、
他のアジア諸国でも徹底的に忌み嫌われていたことを知って、
いまさらながら慄然とした。
かつて歓呼の声に送られて出征した日本の将兵であったが、外地から悄然と引き揚げてきたときには、
恨みを抱く都会の群衆から、つばを吐きかけるような仕打ちで迎えられた。
ほとんどの日本人は、指導者に騙されていたのだと感じ、
個人として罪の意識一つもつこともなく、ひたすら変革を待ち望んでいた。
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「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜 山川出版社 2016年発行
GHQの本拠は, 東京日比谷のお堀端の第一生命ビルにおかれ、連合国の対日占領政策の実施命令はここから発せられ,
日本政府を通じて実施された。
占領軍の日本政府に対する要求は、法律の制定をまたずに勅令 (「ポツダム勅令」) によって実施に移され,
憲法をもしのぐ超法規的性格を有していた。
さらにアメリカ政府は, マッカーサーに対して日本政府の措置に不満な場合には直接行動をとる権限をあたえていた。
占領軍の指令は,天皇制のもとでの抑圧体制を否定するものであった。
そのため, 戦前期の国家体制をそのまま維持しようとしていた東久邇宮内閣は,
この指令を実行することはできないとして総辞職した。
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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
1946年当時、工業生産は1941年実績の1/7に落ちこみ、農業生産ですら、3/5に減っていた。
一方、人口はといえば、海外からの6百万人の引揚者と、
長年離別していた家族が再会した結果のベビーブームのおかげで、
ざっと8千万にふくれ上がっていた。
この狭い国土で、かほどの人口を養うに足る食糧を確保できるかどうか疑わしかった。
抜本的な改革計画を背負わされたために、政府は身分不相応なやりくりを強いられ、
倍率百倍を上回る手のつけようもないインフレに輪をかけていた。
もしこれ以上の改革を推しすすめれば、経済を安定させ再建に取りかかるのを妨げることになった。
日本は、いずれの主要交戦国と比べてみても、はるかに大きな戦禍を被り、いまだ復興は遅々として進まなかった。
将来、国としてまともな経済発展を期待できるかどうか、きわめて怪しかった。
日本人はかつかつの最低生活でしのいでおり、それとてアメリカの援助物資年額5億ドル近い配給食糧に頼ってのことであった。
結局のところは、民主主義にせよ、いかような政治安定にせよ、経済の安定を抜きにしては達成不可能であった。
政治改革も社会改革も、それ自体がいかに望ましいものであろうと、
堅固な経済基盤を欠いていては、究極の成功は望むべくもなかった。
このような状況は、都市と地方の住民の経済的な地位関係を根底から逆転させた。
農村地帯では、農家は父祖伝来の家をもち、一家を養うに足る食糧を自給していた。
だが都市の居住者は、大多数が家を焼かれ、生計の道を絶たれていた。
たいていの都市住民は、アメリカの船積み食糧に頼ってかろうじて生きていたが、
この食糧たるやあまり馴染みのないもので、本来の米の食事の代用としては日本人の口に合わなかった。
都市では闇市ばかりが栄えたが、
そこはヤクザと朝鮮人が支配していた。
これら朝鮮人は戦時中に日本に連行され、日本人が召集で出払った鉱山や工場で働かされてきたが、
日本の敗戦後、そのうちの約60万人がそのまま日本に残留を決めた。
その年、1945年11月になって、占領軍当局がこれら朝鮮人に戦勝国人に準じた身分資格を与えた結果、
日本に深い恨みを抱いていた朝鮮人は、日本の法律を頭から無視してかかった。
都市の住民は闇市に頼らなくては生きていけなかった。
それはただ金がかさむというばかりでなく、法と慣習を几帳面に守ろうとする日本人にとって心理的な苦痛であった。
また、戦後日本のむさ苦しさ、猥雑さも、身だしなみよく清潔でありたいと細やかな気遣いをする人々の心を傷つけた。
敗戦に打ちひしがれ、15年にわたる軍部支配を体験して、戦後の日本は知的活動の拠りどころを失い、
政治的に分裂した国であった。
一連の大きな衝撃は、日本人の心に深い傷を残し、その痛手は容易に癒えなかった。
旧来の価値はすべて不信の対象となり、状況が目まぐるしく変わるなかで、新しい価値観をめぐる甲論乙駁がつづいた。
アメリカ占領軍が掲げたもろもろの目標は、
ときとして日本人の理解を超え、どのみち手に負えるしろものではなかった。
しかしながら、おおかたの日本人が意見の一致をみた事柄がいくつかあった。
その一つは、
何よりもまず経済復興を最優先すべきだという暗黙の認識であった。
国は完全に破綻をきたし、自立もままならない状態であった。
外部世界のほとんどの国が憎悪と侮蔑の目で日本を眺めていた。
日本がふたたび立ち上がるためには、多大の犠牲を払い身を粉にして努力する必要があった。
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