しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「私はその点については門外漢だ」

2024年12月27日 | マッカーサーの日本

昭和20年8月17日、東久邇宮首相は「一億総懺悔」を声明した。
その言葉を借りれば、
開戦も終戦敗戦も,一億国民の上から下まですべて人が、「一億総門外漢」だったことになる。
いったい対米戦争はなんだったのだ。

 

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「マッカーサーの日本(上)」  週刊新潮編集部  新潮文庫 昭和58年発行

「戦略爆撃調査団」⑥東久邇

皇族であり、また大戦中、最高戦争指導会議に名をつらねて、軍の要職にあり、
しかも終戦直後の首相として政局を担当した東久邇宮稔彦王。
この重要人物の喚問に際して、
戦略爆撃調査団が、より核心に触れる答えを期待したとしても無理はない。
だが、ここでも、 調査団はアイマイな返答に困惑した。

昭和20年11月14日。
場所は、皇族の身分を配慮してか、東久邇邸へ調査団のほうから参上した。 
調査団は、初め、日本の戦時経済と軍の戦略について質問したが、これは、どうやらお門違いだったようだ。
答えは、「私はその点については門外漢だ」の一点張り。
そこで調査団 終戦工作〟に話題を変える。


東久邇「私は戦争中、防衛総司令官であり、マリアナが日本から奪われ、B29がやって来ると聞いた時、
戦争は負けそうになったと思った。
米国でB29が製造されていることは、外電から情報を得ていた。
それが1万3千メートルの高空を時速6百キロで飛ぶことは知っていた。
日本には、このような兵器に対抗して使用できるものは、何もなかった。
防衛総司令官の観点から、私は戦争は負けだと思い、当時、そう話した。
その時私は、日本で1万3千メートルの高空を飛べる飛行機を作れるかと尋ねてみたが、できない、ということだった。
それで私は 戦争は日本の負けだと確信した。
B29が日本へ来るようになれば、何もできない、と思った」

 


「その事実を知らせるために、あなたには、どういう方法が可能だったか」
東久邇
「私には、この見解を公表することはできなかった」


「その後、1944年(昭和19年)に小磯内閣が成立してから、政府の要人の間で、日本を戦争から救い出すために何かしなければならないという会談が、非公式、個人的に始まったと聞いているが」
東久邇
「私は皇族なので、その当時は、見解を公に表明することはできなかったが、親しい友人には、茶飲み話ですべてがダメだという見解を話した」


「近衛公やその他の人々との会談で、和平にはどんな方法が必要だと考えたか」
東久邇
「私には、たとえ米国に直接和平を申し入れても、受けないことはわかっていた。 
それで、私の考えでは、まず重慶 (蒋介石政権)との和平を実現し、彼らを通じて米国との 和平を達成するというものだった」

 

当時の日本で、和平を求める具体策としては、ソ連を仲介にアメリカとの交渉の道を開こうという考え方があった。
しかし、蒋介石を仲に立てて、対米交渉を始めようというのは、考えてみれば、奇妙な論理であった。
なぜなら、
対中国との戦争を打開するために、日本軍部がさらに戦火を拡大して太平洋戦争となったその、いわば火元の相手とまず交渉しようというのである。

調査団は、やんわりとこの点を突く。


「ところで、アメリカが直接の申出を受けても和平を承知しないと、なぜ宮は考えたのか」
東久邇
「真珠湾のせいで、諸君がカンカンに怒っていると聞いたからだ」


「そのころ、宮はどんな和平を考えたのか」
東久邇
「日本は負けてしまったのだから、戦争前の状態に戻す、というものだった」


「では、宮は、中国のほうがアメリカより怒っていないと、いかなる根拠のもとに考えたのか」 
東久邇
「いや、シナがアメリカより怒っていない、という問題ではなく、われわれは隣人だから、まずシナと交渉するほうがよいと思ったのだ」


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