”旅行”といえば、学校行事の「遠足」か「旅行」しかなかった。
家族旅行という言葉も、それに相当する旅行も、城見小の児童には関係ない、当時の日本の普通の農村の学校だった。
それだけに学校行事の旅行、とりわけ修学旅行となると、もう1年ほど前から楽しみだった。
行った場所、泊まった旅館、汽車の中、いろんな記憶がはっきりと残っている。
・・・
城見小学校は隔年で、広島・宮島と四国の屋島・琴平が修学旅行の行先だった。
私たちの年は広島だった。
四国よりは広島の方が良いと思っていた。
朝の暗いうちに家を出て、暗いうちに学校に着いて、点呼の後、歩いて大門駅へ向かった。
県境の講口池のあたりで、夜が明けて来た。
その頃の講口池ふきんは、国道2号線とは言え松林の暗い道だった。
大門駅で引率の先生と生徒(62~63人)は、汽車に乗った。
修学旅行はスタートした。
もちろん、各駅停車で鈍行の、蒸気機関車だった。
昼前に広島駅に着き、バスか徒歩で比治山に登った。
比治山で持ってきた弁当を食べた。
工場見学で東洋工業に行った。
まだ四輪車(キャロルI)は造ってなく、バタンコを造っていた。
工場見学が終わって、全員にボールぺン’(だったと思うが鉛筆だったかも)が配られ、うれしかった。
そのボールペンには”東洋工業”と刻まれていたことにも驚いた。
普通の商品に企業名があるのを見たのは、これが初めてだった。
次に原爆資料館に行った。
原爆資料館にも入った。
焼けた肌や衣類の被爆者は衝撃だった。
その日の宿泊は宮島だった。
季節は”秋”の10月末頃、
”安芸”の宮島に着いた。
ガイドさんの話で、「あきの宮島」とは「秋の宮島」でなく「安芸の宮島」であることを、初めて知った。
宮島の大鳥居の下で記念写真を撮った。
ちょうど干潮の時だった。
その夜、
大広間に寝ているところを、先生は何度も見回りにきた。
寝小便をしないように、「便所にいけ」と言っていた。
二日目は岩国に行った。
岩国の錦帯橋に行って、渡った。
錦帯橋付近の河原で遊んだ。
「あの山が岩国城」と説明されたが、まだ天守再建されず、単なる山にしか見えなかった。
橋の袂の土産物屋から、
マイトガイ小林旭の「アキラのズンドコ節」が流れていた。
当時、渡り鳥は歌も映画も大ヒットしていた。
バスは岩国基地にはいった。
広い芝生が広がり、ぽつんぽつんと米軍兵の一戸建て平屋の住宅が並んでいた。
洗濯ものを干す兵士の夫人や、子供を見て
しかも二つの人種、白人家族と黒人家族がいた。
映画館でしか見ない外国人を、初めて直にみた。
バスの車内では、そのことに感動する声が聴こえた。
帰りは、先生がトンネルが多い理由で呉線経由で大門駅まで帰った。
修学旅行は楽しかった。
楽しかった、その一番は呉線のトンネルだった。
呉線はトンネルと瀬戸内海の景観が魅力だが、
小学生であるから、または海は毎日みているからか
海の景色はまったく気にならなかった。
大門駅まで戻り、歩いて城見小学校に戻った。
そこで解散し、
茂平の人は茂平に向かった。
帰りの道は、暗くなり、家に着くころは真っ暗闇になっていた。
家に帰ってから、
岩国では「白い蛇」を見ていないことに気が付いた。
それが残念だったが、いまだに雪辱できていない。
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