瀬戸内海の島々のうち、
吉備・安芸(現在の広島県・岡山県)と讃岐・伊予(香川県・愛媛県)の国境は、タライの舟を流して決めた
というようなことを学校の先生がおしてくれた。
その説は、先生自身も自信がなさそうだった。
今、地図をひろげてみると、タライで決めたのでなく、
古代律令国家の役人が、国と国との真ん中を、中国・四国に平等に分けているのがよくわかる。
例えば、
大きな児島は吉備、小豆島は讃岐にと、
地形とにらみあわせての平等な配分がよく見とれる。
古代の山陽道は、現在の笠岡市域を通らず、
市域の半分ほどは海域で、”鯨”の地名が残るように、
時折、迷い込む鯨がいる海岸線が広がっていたようだ。
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「道の文化史」 中国地方総合研究センター 2013年発行
山陽道
古代の山陽道
近畿と大宰府を結ぶ、軍事、政治上の重要なルートであった。
馬を交通手段として駅伝システムが整えられた。30里ごとに(現在の約16キロ)駅家(うまや)が設けられた。
中世
駅家に変わり宿駅が設けられ、役人たちの鎌倉への往還が頻繁になってきた。
南北朝時代は戦の舞台、中世では独自に関所が関銭(通行税)を取り立てた。
市が出始めた。
伊勢神宮参詣が流行りだした。
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(岡山県倉敷市真備町呉妹「琴引岩」 2022.3.30)
吉備真備公縁の琴引岩
古代山陽道は、この道だったのか?それとも小田川左岸だったのだろうか?
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「道Ⅱ」 武部健一 法政大学出版局 2003年発行
鎌倉時代の橋
ほとんど木橋であったために、その遺構が少ない。
鎌倉時代の東海道にどれだけの橋があったかといえば、
東から、
瀬田、浜名湖。
橋の模様は『一遍上人聖絵』などの資料によるしかない。
関所
古代の関所は軍事的・警察的機構を果たすのを本質としたが、
中世の関所は経済的機能を主眼として、関餞の徴収を目的とした。
各所に関所が乱立した。
社寺参り
中世の旅の特徴の一つに社寺参りがある。
それによって道が拓かれたといってもよい。
熊野参詣はすでに平安時代から始まっている。
鎌倉時代に入ると後鳥羽上皇の23回をはじめ参詣者が多く、
随行者のひとりの藤原定家は、
「天下の貴賤、競いて南山を営む」
と嘆いたほどである。
熊野詣での道中はかなりの山道で、
貴族たちにとっては難行苦行の旅であった。
現世の利益と後生の極楽浄土を願うものであった。
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小田川も江戸期以前は福山方面に流れ、小さな小川だったと思われるので軽々と渡れたと思います。