茂平に映画館は、もちろん、無かった。
月に1~2度、金浦座が茂平の番屋の隣の旧小学校で上映していた。
ほぼ、2回に一度は見に行っていた。
番屋の前では青天に幕を張って上映したこともあるが、画面が揺れてさっぱりだった。
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城見地区では小学校の校庭でも上映していたようだ。
城見小学校のときは、学校の講堂で年に2~3回文部省推薦映画をして、生徒全員見ていた。
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金浦中学校の時は、体育館で金浦座が来て上映した。年に一度くらい。
生徒全員見た。「太平洋ひとりぼっち」をよく覚えている。
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高校のときは、市川崑監督の「東京オリンピック」を学校全員で見に行った。
大和座だった。学校から行ったのは3年間でその一度だけ。
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小学生の時は、映画は年に2回ほど福山の映画館で見ていた。
笠岡の映画館に入ったことはない。
高校生になって笠岡の映画館に行くようになった。
大和座・セントラル・中央劇場の3館によく行ったが、
金星劇場(きんえい)は成人映画が多く、一度も入ったことはない。
笠岡の映画①笠岡の映画館
「笠岡シネマ風土記」 世良利和 岡山文庫 令和2年発行
大和座
笠岡
もともと芝居劇場だったので広い舞台があった。
かつては戎座と呼ばれ、大正頃から映画も上映し出した。
歌手を目指していた松方弘樹が父近衛十四郎に連れられてきた。
1981年閉館。
笠映
笠岡
定員500名、
当初は大映、東宝、新東宝の配給を受けていた。
場所は曙館があったとこ。
1962年閉館、跡地は和信となった。
太陽座
笠岡
笠映の裏側にある定員150人の小規模な映画館。
当初は大映、新東宝の作品や洋画を上映。
1960年閉館。
金映(金星劇場)
笠岡
当初は新東宝、東映などの配給を受けたが後には大映作品を上映して笠岡大映と称した時期もある。
1969年までには閉館。跡地はスーパー・キンエイ。
金浦座
金浦
戦前からの芝居小屋を引き継いだものだ。
1965年頃閉館。
中央劇場
笠岡
大和座の小野圓治が系列館として1955年5月にオープン。
この映画館は地元の人々に洋画専門館として記憶されているだけでなく、
斜め向かいにあった「斎藤」の中華そばの味とセットで想い出す人も多いようだ。
1970年閉館。
東映セントラル
笠岡
1960年に開館、1962年頃に笠岡セントラルと改称。
2階に座敷席があった。
当初は東映の配給を受けるが後には主に日活作品を上映し、
藤竜也、笹森礼子、浜田光夫、太田雅子(後の梶芽衣子)らが訪れている。
さらには松竹や東宝の作品を上映した時期もある。
1985年閉館。
神映館
神島外浦
1956年から、上映は週に2~3日くらいのペース。
上映がある日は町内放送のスピーカーから案内が流れた。
フィルムは笠岡からバイクに載せて運んだ。
建物は現存してあり、外浦港から西へ歩き山側に引っ込んだあたり。
映画館には売店もあり、上映日には外浦の商店2店が交替で、菓子や飲み物を販売していた。
1963年頃で営業を終えた。
もうひとつ
外浦
外浦にはもう一つの別な映画館が存在したという情報もある。
白映館
白石島
「あまのストア」の斜め向かいに現存している。
長椅子が置かれ、上映は週に1~2日だけ、夜の一回のみだった。
北木島の映画館との間で、郵便船を使ってフィルムのやり取りをしながら、1964年頃まで営業していたのではないかという。
当時の白石島の人口は約2.500人で活気にあふれていたが、生徒が映画を観ることは親と一緒でもダメだったそうだ。
光映劇(光劇場、ひかり劇場)
北木島
北木島金風呂にあり、開業時期は不明で1960年に廃業。
現在も建物と内部がほぼそのまま残っている。
上映は週に2日程で夜に2本立て。
日中、スピーカーから上映作品の紹介をした。
経営者・赤瀬は裸一貫からのたたきあげで財を成し、映画館経営に乗りだしたという。
笠岡市議も務めた。
上映はたいてい土日のみで、全盛期には島中から観客がきて2階席まで満員になっていた。
OK劇場(港劇場)
北木島
金風呂地区。
もともとは芝居小屋だったそうで、上映する時には屋根の上に取り付けられたスピーカーから客入れの音楽を流すなど活気があった。
1963年頃閉館している。
大福座
北木島
大浦地区。
旅客船待合所から南東に50mほど行った場所に「民宿多喜」という看板が残る大きな建物があり、そこが大福座の跡地だ。
港屋の前の公民館跡地
北木島
もしかすると、ここが島にあっという4つめの映画館のことなのかもしれない。