しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校で見る映画③高校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

推薦映画

笠岡市内の4高校は、4校の”学校推薦”映画という制度があり、
”学校推薦”以外は見に行ってはいけなかった。
当時、映画館は大和座・セントラル劇場・中央劇場・金星劇場があった。
成人映画以外は、ほぼ”学校推薦”だった。

人気が高かったのは「中央劇場」。

土曜日の午後、館前の自転車置き場は高校生でいつも満車。
映画を見る前に、中央劇場の向かい側にある「斎藤」で中華そばを食べて入れば無上とも言える贅沢だったが、
自分は、その贅沢を経験してない。
その頃の人気映画にショーンコネリーの「007」があった。


管理人がよく行ったのは青春映画。

笠岡セントラル劇場と大和座が青春歌謡映画を上映していた。

 

 

非推薦映画

話題作で「黒い雪」という映画があった。ワイセツ映画で非推薦だったが、


見に行った同級生がいた。
「女王蜂」という洋画も非推薦だったが、普通に見に行く生徒がいた。
罰則なかったのと、福山市や浅口市の高校に通う生徒が多いので、
映画館の方も普通の観客として入場させたのだろう。

 

・・・

 

「1964東京オリンピック」

高校三年間で、唯一、全校生徒が見た映画があった。
それが、「東京オリンピック」。
国民が熱狂したオリンピックの翌年「東京オリンピック」という映画が完成した。

一年生・二年生・三年生は学校の校庭に集合したあと、
約900人の全校生徒は大和座へ歩いて向かった。

映画のポスターは今でもよく覚えているが、
映画の内容は印象にない。
テレビで何度も見たシーンの映画化だったから。


それから55年経った、2021年「東京オリンピック」が開催された。
だれを監督で、映画化するか?
そんなことを思う国民は、誰一人いなかった。
大会幹部の逮捕者続出、政治家と企業の利権だけが目立つオリンピックだった。
日本と日本人は、1964東京オリンピックと比べ、
進化でなく劣化してしているのではないか、
そんなことさえ思う2021東京オリンピックだった。

 

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学校で見る映画②中学校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

「太平洋ひとりぼっち」


当時も今も理由がよくわからないが、
あの映画は「文部省推薦」だったのだろうか?
そし、そうならなんでだろう?

金浦中学校で、たぶん一回あっただけと思うが、体育館で映画をした。
それが石原裕次郎主演の「太平洋ひうとりぼっち」。

ヨットに乗って日本からアメリカの西海岸まで単独で航行した堀江青年を映画化したもの。
当時、堀江青年は新聞・テレビ・ラジオ・雑誌に取りあげられ国民的ヒーローだった。
その話題の延長にのっかって映画化し、主演も石原裕ちゃんが演じた。

映画は、太平洋上でヨットの一人生活なので、面白さはあまりなかった。
太平洋で毎日、気が狂いそうな孤独な日々
荒れた海の、命懸けの戦いは十分感じたが
娯楽の要素が少なかった。
それで学校で上映されたのかな?
映画には、裕ちゃんと日活が得意なアクションも歌もなかった。

 

この時に、中学生を喜ばすことがあった。


それは話題作の”ゴジラ対キングコング”という映画を見せてくれた。
これにはみんな大喜び(特に男子は)した。
一本まるまるでなく、最後の決戦シーンの30分間程度のみを上映した。
しかし怪獣が東京を破壊しながらの決戦でなく、孤島での対決で物足りなさを感じた。
見る前に喜んだだけに、ストレスが少し残った。
学校で見る映画は、ええようには行かんなあと思った。
なお映画は金浦座の出張上映だった。

 

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学校で見る映画①小学校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

小学校の時は日本映画の全盛期だった。
それを反映しているのか、どうかは不明だが、学校でよく映画を見た。

場所は城見学校の講堂、真田(さなだ)講堂。
講堂に暗幕を張ってあり、全校生徒が入り、床にべべちゃんこをして座る。
暗幕は揺れて館内に光が入ることがよくあった。
映画館では2~3本立て上映で、さらに予告編とニュースがあったが、
講堂で見る映画は一本立ての上映だった。

学校で見る映画は苦痛だった。
勉強しなくて、座っているだけの授業(?)なので楽なはずだが、嫌いだった。
その理由はただ一つで、
”面白くない”映画だったから。
いわゆる”ためになる”映画。

覚えている映画は、
野口英世の少年時代
路傍の石


にあんちゃん
キクとイサム
白蛇伝(←まんが、今で言うアニメ、カラー映画だった)
そのうち、路傍の石は6年間で二度見たような気がする。違う映画だったが。
これでは全く面白くない。


が、しかし例外もあった。
それが、新諸国物語「オテナの塔」、これは嬉しかった。

(主演は後の坂田藤十郎)


もひとつ、学校でなく笠岡にバスで見に行ったことが一度ある。
総天然色映画だった。笠映だったような気がする。洋画だった。題名は記憶ないがスクリーンがきれいだった。

でも、
子供の頃は映画は大好きだったが、剣を振り回すチャンバラ映画以外はまったく興味がなかった。


・・・

 

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川辺橋

2023年06月05日 | 無くなったもの

場所・岡山県倉敷市真備町川辺~総社市清音
無くなった日・令和5年6月4日
撮影日・2015年9月23日

 

(川辺側=高梁川右岸の、川辺橋)

 

 


川辺橋の撤去工事が、テレビや新聞で報道されている。
橋が傾いたので橋脚を撤去する、という工事が始まった。

 

 

(清音側=高梁川左岸の川辺橋)

 

・・・

【TVニュース】
6月4日、傾いた橋脚にかかる2つの橋桁のうち、1つを取り除く作業が行われました。
川辺橋の橋脚の傾きが見つかったのは5月8日です。県は、このまま放置すると橋脚が倒れて川の流れを妨げ、水位が上がる恐れがあるとして撤去を決めました。
新しい橋を整備するかなど今後の方針はまだ決まっていません。

・・・

 

川辺橋とは旧山陽道に架かる橋で、
江戸時代、川辺は川辺宿として栄えた。
大名たちは「橋の無い」高梁川を、渡った。

大正時代ごろ、山陽道は南の浜街道(旧2号線)へ地位を奪われたが、
昭和の初め頃、旧山陽道にも架橋が完成した。
それが「川辺橋」。
戦後、金田一耕助さんが歩いたのも、この「川辺橋」。

現在は二本の川辺橋がある。
新しい方の川辺橋に歩道を設けているそうだが、橋の幅はせまくて危険、というか窮屈。

霞橋と同じで、通勤・通学の人が多いから、
専用の歩道橋は必要だろうなあ。

 

・・・

 

朝の川辺橋

(2023年5月2日、午前7時52分の川辺橋。信号待ちの川辺橋から、旧川辺橋を見る)

 

・・・

 

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”2023JFE西日本フェスタ”に行く

2023年06月04日 | 令和元年~

「人に歴史あり」とはよく聞く言葉だが、
それは、あらゆる自然界や土地にも言える。

広島県深安郡大津野村津之下の牛の首は、風光明媚な海水浴場だったが、
第二次世界大戦中に海軍の飛行場が出来た。
敗戦後、
飛行場の場所に、進駐軍がやってきた。
その周辺には、飛行場県建設に連行されてきた朝鮮人が住み、あやしげな酒を売っていた。(当時の飲食物は、誰が売っていたのか問わず、全て怪しい)

その後、警察予備隊という軍隊が出来、
大津野飛行場跡は予備隊の人が暮らしていた。
(その頃、管理人は小学校の遠足で大津野の予備隊に来たことがある)

戦後、広島大学ができて、大津野飛行場跡は「広島大学水産学部」になった。

昭和36年頃、日本鋼管の進出が決まり、
牛の首は激変した。
今はもう、
戦前の海、
戦中の海軍基地、
戦後の警察予備隊、広島大学、その名残りは何一つない。

 

 

・・・

 

2023年(令和5年)6月4日、
4年ぶりに「JFEフェスタ」(旧・鋼管祭り)が開催された。

場所・広島県福山市大門町津之下 (JFE駐車場)

 


・・・・・

福山市は、江戸時代は城下町。

 

昭和40年以降は、日本鋼管の企業城下町。

あれから半世紀、会社名は変わったが今も福山は”鋼管の町”。

 

 

・・・

 

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若狭「鯖街道」と備中「とと道」

2023年06月03日 | 食べもの

江戸や明治の時代、京都の人たちが食べる鮮魚は、大阪湾や瀬戸内海でとれたものを、伏見まで海上輸送し、伏見から1里ほど陸送したと思われる。
若狭・鯖街道の陸送は18里の距離。
鯖は瀬戸内でも太平洋でもとれる。”鯖街道”の名称ではあるが、魚の総称だったのだろう。鯖大使という高僧伝説も、魚という意味のようだ。

 

 

(鯖街道・熊川宿 2013.8.2)

 

「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行

鯖街道と鯖の食文化

 

(小浜城跡)

(小浜城跡)

 

鯖街道
江戸時代若狭湾でとれた鯖を一塩して、徹夜で京都まで若狭街道を運んだことからその名がついた。
しかしその荷の中には鯖のみではなく、イカ、鯛、カレイ、ブリなどの魚、
北前船で運ばれてきた昆布や十州塩なども含まれていた。
その中で最も量が多く、京都の人たちに喜ばれる魚が鯖であったことから鯖街道という名が付けられたのである。

(小浜市)

 

 

鯖街道の起点、小浜
若狭湾でとれた鯖やブリは、美浜・小浜・高浜ばかりでなく、丹後の舞鶴や宮津にも水揚げされるから、京都に向かう鯖街道にはいくつかのルートがあった。
最も知名度が高いのが、小浜を起点とする若桜街道であった。

時間を節約するために最短のコースをとった。
急がない荷物は今津から大津へ琵琶湖の水運を用いた。
急を要する鮮魚などは渓谷を走っていた。
海に接することのない京都では生の魚は手に入らなかったので、
鯖を酢でしめた「生ずし」と呼ばれるしめ鯖を食べていたのである。
小浜から京都の玄関である大原まで18里の距離があった。
朝小浜を発つと翌朝の市に間に合ったと言う。

 

・・・・・・・・

 

「備中とと道」の魚を食った人

若狭の「鯖街道」と、備中の「とと道」は様子が似ている。
鮮魚を人が運ぶ。
距離は、鯖街道が約70kmでとと道が約60km。
相違点は、「鯖街道」は単独で、まる一日。「とと道」はリレー方式で6時間くらい。

「とと道」は一人40Kg程度の魚量で、
毎日でていたのか、それとも鰆がとれる季節だけだったのか。
運搬人は年間通しだったのか、それは何組が出ていたのか。鮮魚はどのように料理され、誰が食べ、何の目的だったのか。
残念ながら、わからない事が多い。

昭和の中頃までは、漁村や港町に住む人たちでさえ、鮮魚を食べるのは年に1~2度あるかないか。
高額な運搬料が掛かり、ダイヤモンドのような鮮魚を食べていた人は、普段の桁外れの豪華で優雅な生活ぶりまでが気になる。

 

 

(高梁市成羽町吹屋・広兼邸)

 

「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行


鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。
口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。
明治、県南沿岸地方では最も多くの取引高を持っていた。

取引範囲は地元の水揚げの他、東部は淡路島・下津井・塩飽諸島、西部は香川県伊吹島・広島県鞆・田島・横島・走島であり、
市は「せり買い」で行われ、毎日朝市と夜市が開かれ、仲買人の手によって市場で値がつけられた。
せり落された鮮魚は、仲買人から小売人(行商人)により近接の地域に販売された。

商圏は二種類に分けられ、
直接消費者に売る場合は「肩荷」として運ばれ、これは現在の商圏とほとんど変わらない。
一方魚小売商に卸される商圏は、遠く備北地方の新見・高梁・総社などに及び、「奥荷」と称され仲買運搬によって輸送された。
さらに鉄道の開通により樽に氷詰めされて京阪神地方にも送られるようになった。このルートは昭和に縮小されていく。
そして輸送量は増大するが販売市場は狭少となり、高い密度の個別販売が行われていくのである。

・・・・

 

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