動物の本能の一つは子孫を残す行為である。このため異性を引き付けようと努力する。雄の孔雀は羽を広げて雌を呼び寄せ、雄猿は強さを誇示し、蝉は声を張り上げる。人間においてもこの本能は免れず、様々な方法で異性を引き付ける努力をする。その一つがお化粧である。
ブリタニカ百科事典によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首・手・足などの表面に化粧料をほどこし、美化することである、と定義しているが、お化粧の必要性については答えていない。
孔雀の例を人間に当てはめ、その答えは異性へのアピールの為であるとすると、余りにも動物的なためか、女性に反発されそうである。
そこで、人間は他の動物に比較し、社会的必要性から自分を目立たせる必要があり、化粧は自分の存在を異性ばかりでなく、同性からも認められるための手段であると解釈すれば、納得されるであろうか。自分の見栄えが良くなると、女性ばかりでなく男性も自分に自信が持てて、明るい積極的な人間になれるとの心理学の実験結果もあるようだ。女性が高齢者になってもお化粧にこだわるのはこの理由からであるとするとより分かる。
しかし、あくまでもお化粧する本質は異性を引き付けるための本能であり、社会の中で目立たせる手段であることは、教育や学習によって得た副次的な特性であろう。
最近、若い男性でも化粧することが流行っているようであるが、これは間違いなく女性へのアピールであろう。高齢者の男性から見ると気持ちが悪いだけだ。異性へのアピールは外見ではなく、内面でやれと言いたいが、それも外見の美しさを認める女性がいるからであろう。若者の方が本能に忠実であり、高齢者の方が社会的な経験が多いというだけかも知れない。
従来、化粧は女性の専用であった。すなわち女性が美しく化粧して、男性が言い寄って来るのを待つ構図である。しかし、一般動物社会を見渡すと、雄が雌を引き付ける努力をしている例が多々ある。多くの鳥では、雄の外見が派手で雌は地味であることが多いそうだ。これは、雄が異性に認めてもらうために派手になる必要性があるためであり、雄の孔雀の立派な羽根は典型例であろう。
雌は交尾の後、出産との重要な役目を担うが、雄は用無しだ。雄は生涯における最大の努力を異性の発見に注げばよい。動物からの知見では、お化粧は男性がやった方が自然に適っているのかも知れない。
しかし人間の場合、子育ては女性だけでは出来ない。社会生活を営む限り競争がある。様々な社会的競争に勝つためには、男性の場合、肉体的強さ、精神的な力の必要性は、外見的な力より遥かに大きい。そこで、お化粧は二の次になる。女性の場合、お化粧等の外見力が強いだろう。
以上のように考えると、ジェンダフリーの考えと逆行すると非難されるかも知れない。ジェンダフリーとは、従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること、と定義される。
この考えは、分かったようで、よく分からない。一般動物社会では、雄雌の役割分担は明確にある。この役目は親から教えられたものではなく生来のものである。人間も動物であり、役割分担があって然るべきである。
ジェンダフリーの考え方の分かり易い例として、男性がジーンズを、女性がスカートを着用することに関し、男性・女性ともにジーンズとスカートの両方を選ぶ権利があり、それは他者からの強制を受けないよう配慮するべきだとされる。
スカートかジーンズか自分の好みに合わせて自由に選択するのであれば問題ないのであろうが、その好みが生来の好みか、親からの教育かが問題であり、内面的な問題となる。成人した人間の内面の問題は、生まれつきのものか、生まれた後の教育によるものかは、明確に分けられないだろう。ここにジェンダフリーの考え方の難しさがあると感ずる。
兎も角適度なお化粧は人の心を華やかにする。しかし、あくまでも適度であればだ。2017.09.02(犬賀 大好-369)
ブリタニカ百科事典によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首・手・足などの表面に化粧料をほどこし、美化することである、と定義しているが、お化粧の必要性については答えていない。
孔雀の例を人間に当てはめ、その答えは異性へのアピールの為であるとすると、余りにも動物的なためか、女性に反発されそうである。
そこで、人間は他の動物に比較し、社会的必要性から自分を目立たせる必要があり、化粧は自分の存在を異性ばかりでなく、同性からも認められるための手段であると解釈すれば、納得されるであろうか。自分の見栄えが良くなると、女性ばかりでなく男性も自分に自信が持てて、明るい積極的な人間になれるとの心理学の実験結果もあるようだ。女性が高齢者になってもお化粧にこだわるのはこの理由からであるとするとより分かる。
しかし、あくまでもお化粧する本質は異性を引き付けるための本能であり、社会の中で目立たせる手段であることは、教育や学習によって得た副次的な特性であろう。
最近、若い男性でも化粧することが流行っているようであるが、これは間違いなく女性へのアピールであろう。高齢者の男性から見ると気持ちが悪いだけだ。異性へのアピールは外見ではなく、内面でやれと言いたいが、それも外見の美しさを認める女性がいるからであろう。若者の方が本能に忠実であり、高齢者の方が社会的な経験が多いというだけかも知れない。
従来、化粧は女性の専用であった。すなわち女性が美しく化粧して、男性が言い寄って来るのを待つ構図である。しかし、一般動物社会を見渡すと、雄が雌を引き付ける努力をしている例が多々ある。多くの鳥では、雄の外見が派手で雌は地味であることが多いそうだ。これは、雄が異性に認めてもらうために派手になる必要性があるためであり、雄の孔雀の立派な羽根は典型例であろう。
雌は交尾の後、出産との重要な役目を担うが、雄は用無しだ。雄は生涯における最大の努力を異性の発見に注げばよい。動物からの知見では、お化粧は男性がやった方が自然に適っているのかも知れない。
しかし人間の場合、子育ては女性だけでは出来ない。社会生活を営む限り競争がある。様々な社会的競争に勝つためには、男性の場合、肉体的強さ、精神的な力の必要性は、外見的な力より遥かに大きい。そこで、お化粧は二の次になる。女性の場合、お化粧等の外見力が強いだろう。
以上のように考えると、ジェンダフリーの考えと逆行すると非難されるかも知れない。ジェンダフリーとは、従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること、と定義される。
この考えは、分かったようで、よく分からない。一般動物社会では、雄雌の役割分担は明確にある。この役目は親から教えられたものではなく生来のものである。人間も動物であり、役割分担があって然るべきである。
ジェンダフリーの考え方の分かり易い例として、男性がジーンズを、女性がスカートを着用することに関し、男性・女性ともにジーンズとスカートの両方を選ぶ権利があり、それは他者からの強制を受けないよう配慮するべきだとされる。
スカートかジーンズか自分の好みに合わせて自由に選択するのであれば問題ないのであろうが、その好みが生来の好みか、親からの教育かが問題であり、内面的な問題となる。成人した人間の内面の問題は、生まれつきのものか、生まれた後の教育によるものかは、明確に分けられないだろう。ここにジェンダフリーの考え方の難しさがあると感ずる。
兎も角適度なお化粧は人の心を華やかにする。しかし、あくまでも適度であればだ。2017.09.02(犬賀 大好-369)
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