畑のつぶやき

畑や田んぼの作物の生育や農作業の報告
農家の暮らしの日記
田畑を取り巻く自然の移ろいの描写
食、農への思い

基盤整備

2023-06-25 18:32:04 | 農業の事

6月25日(日)

現在の稲作は、完全に機械化され、機械化は、同時に、大規模経営へと進んだ。人間個々の作業量は知れている。機械は、大型化すればするほど、時間当たりの作業量は増える。その単純な掛け算により、稲作は、大規模経営化が進み、今や、家族農業は一握りも見られ来ほどになっている。

私たちが移住したころ、個々の田んぼは、昔ながらの地形を残した、曲線が主な形状の田んぼがほとんどで、農道も限られ、歩くか小さな機械でなければ通れないような、畔を利用する農道や、ほかの田んぼを通る、田越しで行くような田んぼが、ほとんどだった。今、全国あちこちで、観光や、体験農業などの米つくりに歓迎される、棚田。棚田100選とか、日本農業の原点とか、美しい自然を保存する農業、等々、コメの生産を度外視して、語られる棚田。このような棚田ではなかったが、地形を利用し、水が低い方へと流れる自然を利用して、地域全体が、大きなダムといえる、田越の水を引き入れての稲作だった。堰の水は、主たる水路を流れ、上の田んぼに入り水路から遠い田んぼには、ほかの田んぼを経由して、引き入れていた。雨として供給される水も、段々と下に流れ、田を満たしていた。

移住した翌年から、農地の基盤整理事業が始まった。だから、この地域の原風景は、おぼろげながら、記憶の隅に残っている。地区の風景は、がらりと変わった。基本、農道と排水路を隣接させ、配水はパイプ配水となり各水田に給水バルブを取り付ける。暗渠排水管も原則敷設された。田んぼの形は、基本的に長方形で、30アールを原則としたものだった。田の水入れは、バルブを開くだけ、水の管理は、隣の田んぼを気にすることなく、自由にやれるようになる。一方で、度の田んぼも、流れ出る水は、すべて排水路に落ちることになる。必要な水は直接入れて、不要な水は、排水路へ捨てる。水田の管理は楽になるが、雨を利用する、自然による稲作から、人工的なものになっていった。

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スピード

2023-06-22 18:40:54 | 農業の事

6月22日(木)

私の生きてきた時代を振り返ると、あらゆることが、ものすごい速さで、変わってきた。それは進化なのだろうか。私の親たちの時代も、明治から、大正になったころに生まれ、60年も続く昭和の時代を生きた親たち。社会の目まぐるしい変化に翻弄され、変化を生活に取り入れ、肉体的には、いくらかは、「楽」になったと感じてきただろう。それをそのまま引き継ぎ、さらなる「変化」と、そのスピードを受け入れてきたのが私たち世代だろう。変化は、当然、人口の密集する都市部に現れ、広まった。地方の農山村部などは、かなりの遅れがあり、変化はゆっくりだ。しかし、私たち、いわゆる団塊の世代が、中心になるころには、変化は、中央と地方の格差を一気に縮め、均質化した時代でもあった。それは、人間が自然から飛び出し非自然化する過程でもあったように思う。そして、私たちの次の世代は、それを完成させる。人間という動物が、自然から、完全に飛び出し、自然を完全に対象化しようとしている。

そんな時代に、農業を生業にしてきた、40年。その変化のスピードを振り返る。

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移住、40年

2023-06-21 18:43:36 | 農業の事

6月21日(水)

我が家の農業は、採卵鶏養鶏と、水稲が主の出発だった。移住した地区は、強い粘土質の土地で、畑は少なく、田んぼが中心の地域でだった。雨が降れば、ぐちゃぐちゃ、乾けばガチガチになるような土質で、水はけも悪く作業は大変だった。米つくりの最初の数年は、友人たちの援農や、田植えツアー的に都市からの応援を得ての、手で植える田植えと、手鎌による稲刈りの、人海戦術による、作業だった。多いときは、10数人もで、田んぼに並んでの、にぎやかな田植えや稲刈りを行った。しかし、それでは、農業を主にする生活からは程遠く、中途半端な状態が続くことになっていた。

それでも、中古の機会を世話してもらったり、機械を借りての仕事を増やし、少しづつ機械も増えていった。人とのつながりも増え、少し遠いところに、まとまった畑を借りれるようになってから、米と卵と野菜のセットを消費者に直接、宅配便で届ける提携農業を、少しづつ増やし、それを中心にする農業へ進んでいき、今に至っている。

2023年。移住して、40年になる。この40年は、農業の変化の、ものすごいスピードを実感し、体感した、40年となった。

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20年後には

2023-06-19 18:41:09 | 農業の事

6月19日(月)

農業を見向きもせず、関心も示さなかった20年ほどの間に、現場は大きく変わっていた。

田畑を耕す道具は、人力や畜力から、ジーゼルエンジンや、ガソリンエンジンで走行し、駆動するロータリー付きの耕運機をどの農家も使用していた。規模を大きく経営している農家は、乗用式のトラクターを所有している。ガソリンエンジンが改良され、普及してより小型の耕運機が広まったようだ。少し前までは、耕運機の作業機として、鋤(プラウ)で越智を起こし、馬鍬を引いて裂土、代掻きをしたと聞いたが、すでに、プラウとロータリーを使用していた。

数年の地には、プラウはあまり使われなくなり、ジーゼルエンジンの大きなロータリー耕運機が主と泣てきた。同時に、トラクターもぼちぼちとみられるようになってきた。

田植えも手うえはほとんど見られず、主に二条植えの田植え機がほとんどの農家にあり、苗も、ハウス内育苗の稚苗箱苗になっていた。肥料はほとんど、設計された粒状の化学肥料。施肥もほとんど、20㎏の粒状肥料が入る背負い式の動力散布機。田の草取りはほぼすべて除草剤。畔草刈りは、刈払機を使用する。そして、稲刈りはバインダーという機械を使用するようになっていた。稲を刈り取り束ねて縛ることまでする機械だ。その稲束を架け干しして、脱穀する。脱穀機は、ハーベスターといい、エンジン付きの自走脱穀機で、脱穀しながら風選して藁クズなどの軽いごみを飛ばし、モミを選別して、袋詰めまでする機械だ。

このように、米つくりは、完全な機械化が浸透していた。

 

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出発

2023-06-18 18:14:23 | 農業の事

6月18日(日)

【一日、共同作業。午前中は宮薙ぎ。午後は寺の草刈り、清掃。刈払機を背負い、疲れる。実働は、3時間ほどのものだが。】

移住してすぐに、米つくりは始まった。土地購入時に世話になった農家の紹介で、10aほどの田んぼを借りることになった。同時に、水道工事店でのアルバイトも紹介され、その世話で、中古の耕運機も購入した。全く経験のない耕運機、田んぼを耕すことも、代掻きのことも初めての経験。知らない上の怖いもの知らずで、いろいろ失敗も多かった。近所の農家にも助けられ、見よう見まねでの米つくりだった。

畑は家の敷地で、500坪くらいから始める。杉の間伐材を柱に、小さな鶏小屋も自作した。20羽ほどの雛を購入して、採卵鶏の飼育も始めた。やはりしばらくは、全く農業収入はなく、配管職人の収入と、自作による農業施設つくりと、中古農機での、田畑作業がしばらく続くことになる。田んぼや畑は、少しばかり遠かったり、段々の棚田だったりだが、二年目からは、5~6反ほどを耕作することになった。鶏も、100羽くらいの飼育になり、少しは、農業収入もできるようになった。

しかし、とても、生活できるほどでなく、職人の賃金が主だった。田植えと、稲刈りの農繁期には、まとめて休み。それ以外は、週に4~5日は配管工、2~3日は農業に従事。重労働や、機械を使う作業を主にやった。鶏の世話と、畑の日常管理は連れ合いと、分業体制ができ、長いことそれは続いた。

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準備ー土地と住い

2023-06-17 17:54:38 | 農業の事

6月17日(土)

移住前の一年は、配管の技術を身に着けることと同時に、移住して住む場所、農地をどうするかということに時間を取られた。これまでの数年間、友人たちと共同で、房総半島の山間に土地を購入し、簡単なプレハブハウスを建て、休日の田舎暮らし的なことをやっていた。その場所からそう遠くないことを条件に、土地を探した。ちょうど、バブルのころでもあり、価格は高く、不動産業者も、いろいろだった。何か所もの土地を見て回ったが、田畑をやれるような広い面積付きの土地は、なかなか手が付けられず、焦る気持ちにもなった。

知り合った、地元の土地ブローカーをやっている農家の人の意見も聞いて、とりあえずは生活拠点の住まいや、作業場などを確保できるほどの土地を購入した。このブローカーをやってる人とは、その後もずっと付き合い、いろいろ相談に乗ってもらったり、助けてももらってきた。

秋には、土地の整地も終え、地元の工務店に建築を依頼する。当然、給排水工事は、自分で通いで行った。よく、1983年2月、住宅完成。3月、移住。

引き返すことのできない、農的生活の始まりだ。

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準備ー配管職人へ

2023-06-16 18:16:05 | 農業の事

6月16日(金)

【梅雨の中休みの晴天。一気に夏がやってきた。田んぼの畔草刈り。モアでの作業は終わった。私にしては早めの一回目の草刈りだ。】

1982年。ミカン農家での実質60日ほどの体験で、肉体的には、農業の生活に飛び込んでも、やっていけるだろうとの結論を得た。そして、具体的な移住の準備を本格的に始めた。

移住して農業を始めても、すぐに農業で生活できるようにはなるはずはない。最初は自給ぐらいを目標に、生活費は別途得る方向を選ぶことにする。幸い、建築設備会社に勤めていたから、水道なども住宅設備は専門だ。仕事は現場管理だったから、実際の工事は、直接はやっていなかったが、段取りなど、大筋はよくわかる。そこで、実際の配管工の技術を身に着けることにして、知り合いの職人に頼み、アルバイトという形で、雇ってもらうことにした。約一年間、その職人にやとわれ、現場仕事をやらせてもらった。これは、大正解だった。移住してすぐに、ガス、水道の設備店で、日雇いの職人として、働き、収入を得ることができた。

 

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さよなら農業

2023-06-13 18:36:33 | 農業の事

6月13日(火)

小学校の高学年になるころには、農繁期休暇もなくなってきたのではないかと思う。中学では、休暇はなかった。中学か、高校に入るころには、魚野川の大規模な河川改修工事が始まり、我が家は、川の土手の内側になることになり、すぐ近くに新たに立て替えて、引越した。その時、我が家の畑を含み、川のすぐそばの河川敷のようなところにあった畑は、すべて国が買収した。畑はなくなった。家屋敷のちょっとした家庭菜園だけになった。

私自身、小学校の高学年になると、農作業の手伝いは気が進まなくなっていた。中学に入ると、部活をやることを口実に、ほとんど手伝わなくなった。泥まみれ、土汚れのきつい作業をやるのが馬鹿らしく、いやになっていた。そのころから、高校に入る、大学を受験したいと、農業や、農村、地方から離れ、都市に行きたいという気持ちが強くなっていた。

だから、この地方の農業が、どのような状態だったのかは、関心がなかったから、ほとんど記憶にない。だから、1960年代に入ったあたりからの魚沼地方の農村の実態についての具体的な記憶は全くと言ってよいほどにない。見向きもしなくなっていたといってよい。

だから、移住を決める1980年代初めまで、20年ほどは、何も見ていなかった、空白の20年間といってよい。

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籾摺り

2023-06-11 17:37:36 | 農業の事

6月11日(日)

【夜、かなり降った雨は、明るくなるに従い弱まり、7時過ぎには上がった。共同作業の草刈りだったが、こんな雨上がりだったので、休むことにして、午前中は、のんびりして、午後は、ハウス内の草取りをする。これから数日は、梅雨ながらも、本降りはなさそうなので、しっかり、田畑作業をしたいと思っている。】

米つくりで、一番難しく、大変な作業は、籾摺りだろう。稲にとって、種を残し次代につなぐ命を保護し守る籾をはぎ取る作業だ。ひと時代前は、土臼や木臼で摺り、もみ殻をはがしていたようだが、当時、すでに動力を使う籾摺り機は使われていた。速度の違う回転する二つのゴムロールの間をモミが流れ落ちるとき、その摩擦で、モミがはがされる。軽いもみ殻は、風選により、飛ばされ、重い玄米とより分けられる。モミの大小、乾燥具合などにより、一気に玄米にならずに、玄米と籾の混ざった状態で、流れる。この混合の流れから、玄米を選別する方法が、万石式といわれるものだ。傾斜のついた何枚かの網の上を混合米が流れるとき、玄米と籾に分けられるのだが、これが非常に難しく、コツや経験が必要だ。網の大小や、傾斜具合を調整する技術が必要だった。我が家の籾摺りでは、上手だという人を、」その時だけはお願いしていた。

こうして、ようやく、玄米として、本当の収穫が終了する。モミでの場合の約半分近くの貯蔵スペースで済むし、精米機にかけて、すぐ白米にして、食べられるようになる。

この、籾摺り機だけは、作業場での共同所有のものだけだったと記憶している。

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脱穀

2023-06-10 18:03:29 | 農業の事

6月10日(土)

【雨が降ったりやんだりが続く。出荷作業の後、雨の止み間もあるが、ハウス内の草取りなどで、お茶を濁すだけ。】

秋は乾燥した晴天が続くことがおおい。稲の収穫に適した天候で、田植え後の梅雨といい、こんな天候が、稲作が主の日本の農業を支えて生きた。しかし、作業は集中するので、作業場での脱穀作業の順番取は大変だ。我が家のように少しだけの稲作の場合は、一日もかからないから、ちょっとした隙間に入れてもらえばよい。しかし、脱穀だけで何日もかかるような、規模が大きな農家にとっては、順番待ちは大変だ。集落でも数件の大規模稲作の農家は、自分の家で、脱穀をしていた。作業場にあるのと同じような、脱穀機を所有し、ジーゼルエンジンを動力に使い、家族総出で脱穀作業だ。家の中庭が作業場で、蓆を何枚も敷いて、スペースを作り、稲わらを運ぶかかり、脱穀する係、モミを袋詰めするかかり、藁束を片付ける係、人では、多すぎるということはない。

ちょっと前までは、人力による、足踏み脱穀機が使われていた。外部動力に寄らず、人の足で脱穀胴を回転させ、モミを分離させた。この脱穀機は、私たちも、移住後、不要になったものを譲り受け、大豆の脱穀に使ったことがある。

脱穀された籾は、晴天の日に何回か、蓆の上に広げて、天日乾燥される。そして、袋詰めされ、あるいは、据え付けられている穀入れに収納され、貯蔵される。しかし、これで収穫作業が終わったわけではない。

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