畑のつぶやき

畑や田んぼの作物の生育や農作業の報告
農家の暮らしの日記
田畑を取り巻く自然の移ろいの描写
食、農への思い

作業場ーそして、脱穀

2023-06-09 18:35:59 | 農業の事

6月9日(金)

脱穀は、晴天の日にやることになる。今でこそ、モミの中の玄米の水分を測定して、最適な状態にするが、当時としては、穂の乾き具合、を判断して、脱穀をする。その後、晴天の日に、蓆を広げ、モミを広げて、天日干しをして最適な状態にしていた。とにかく、米つくりは、手間暇のかかる仕事だった。

集落には、作業場があった。二階は集落の集まりに使う、集会場で、一階は共同の作業場。当時、すでに動力の大きなモーターが据えられていた。天井には、いくつものプーリーが取り付けられた鉄筋の回転軸があり、モーターの回転を平ベルトで、軸に伝動されていた。脱穀機、籾摺り機、精米機、製粉機などが据えられており、天井の軸から、それぞれにベルトで回転をつたえるようになっていた。

よく乾いた稲束を稲架から降ろし、作業場に運び、爪のついた胴が回転する脱穀機に、藁の根元をもって、穂先を入れて、藁と籾を分離する。モミは、脱穀機の下に落ちるから、それをかき寄せて、手箕で、袋に入れる。どんな袋か忘れたが、麻袋のようなものだったろう。藁で蓆を編み、それを二つ折りにして、両脇を縫った、カマスと言った大きな袋も使われていた。藁は藁で、貴重な資材として、扱われた。脱穀済みのモミには、藁クズなども混ざっているので、唐箕にかけて、風選で藁クズなどを飛ばして、重い籾を選別した。ここまでやって、ようやく、室内貯蔵ができる状態になる。一段落だ。

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稲架(はざ)

2023-06-02 18:22:36 | 農業の事

6月2日(金)

【予報通り雨の朝。本降りが続き、夕方には、風も強まり、ヒュウヒュウと音を立てている。今夜から、明日の午前中にかけてがピークとなるようだ。特に大雨が心配され、雨に弱い当地では、自主避難所の開設、JR列車の運休予定が、広報で流された】

稲刈りが始まると、刈り終わるまで、毎日続けられる。よほどの大雨以外は、少々の雨ふりも休めない。乾くまでは、稲架かけを続けるから、雨でぬれても、稲刈りは行われた。稲わらは染みて重くなり大変だったろうが、短い秋にせかされて、仕事は続いた。

稲刈りが続くと、集落の風景は一変する。村のあちこちに稲架が高い壁のように現れる。10段ほども稲束をかける稲架の高さは、3~4mにもなり、家の二階を超えるほどになる。家の周りに稲架場がある農家では、正面から脇にかけて、ぐるりと稲架が擁壁のように囲み、くぐってはいる入り口だけが、小さく開いており、まるで、要塞のようになる。「一郎どんにいごうとして、次郎どんにへえったがんに」 などと笑う話も言われるほどに、誰の家だかわからないような、稲架かけ通りとなっていた。

秋の晴天が続き、稲束の穂がよく乾くと、いよいよ脱穀だ。

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稲刈り

2023-06-01 20:16:35 | 農業の事

6月1日(木)

【梅雨入りはしていないが、梅雨の合間の晴天といってよいような一日。雨の心配はなく、日差しも届く。今夜からは、台風の影響で、前線が活発化し、大雨の予報が出ている。逃がせないと、花畑。夏野菜のマルチ畝間の中耕除草。管理機を走らせ、ロータリー耕で草の処理。春野菜の終わった畝のマルチフィルムを3枚片付ける。】

夏休みが終わり二学期が始まっている。多分、10月に入ったころだと思うが、秋の農繁期休暇が始まる。田んぼは、黄金色に実りの色に染まる。収穫の秋だが、それはきつい労働の始まりでもある。秋の作業も、すべて人力だ。

稲株の地際をつかみ、鎌で刈り取る。数株をめどに地面に置き、同じ握りの稲を斜めに交差させるようにその上に置き、稲わらで、株元を縛る。稲架にかけるときに開きやすくするように。腰を曲げての作業だし、稲わらで縛るときには、ばらけないようにきつく締めて、藁をよって、回した藁に押し込む。親指で押し込むから、指先が痛くなる。稲の育ちがよいほどに収穫は多くうれしいはずだが、作業は時間がかかる。稲の束をまとめ、肩に担げるほどの大束にして、稲架場に運ぶ。稲架場が遠ければ、リヤカーに積み、引手と押手。何度も往復する。

稲架は、10段ほどにかけていた。柱は、生木を利用するか、丸太を地面に立てる。稲架用の枝が少なく、まっすぐ伸びて、あまり太らないような樹木が植えられていた。稲架場は家の周りとか、田んぼの途切れる脇とか、農道と空き地の脇とかだった。一番上と、下は竹竿か丸太。その間には、縄を張る。縄がたるまないように、上の丸太から縦に縄を編むように張り、升目にする。稲束を開いて、稲架掛けする。下の方はどんどんかけれるが、手が届かなくなると、二人作業。渡し係と架け係。もっと上になると稲束も届かない。架け係は、梯子に上り、上にいる。渡し係は、稲束の穂先を下にして、捻り曲げて反動をつけて、投げ上げる。架け係がつかんでかける。疲れてくると、上まで届かないこともある。

秋の日暮れは早く、真っ暗になるまで、作業は続く。

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田んぼのある暮らし

2023-05-31 16:56:53 | 農業の事

5月31日(水)

田んぼの記憶はまだある。虫取り。田植え前、田植え時か少し後ぐらいだろうか。ニカメイチュウという稲の害虫の捕殺。1㎝~2㎝くらいの薄茶の蛾だった。農協か役場からかの奨励があり、子供たちは競って捕まえ、大人たちに届けていたように記憶する。誘蛾灯もあった。畳ほどの大きさの油のような液を張った枠の上に青い光の電灯をつけ、夜に虫を誘っていた。害虫だけでなく、カブトムシやクワガタも誘われ、子供たちを喜ばせた。田んぼでは、ドジョウ取もやった。田んぼの水口にざるや網を据えて、泥の中のドジョウを追い捕まえた。

稲の育つ田んぼは、そのまま、子供たちの遊びばでもあった。

農薬の共同散布も始まった。農薬散布の水田には、赤旗がたち、数日間は立ち入り禁止の公示があった。毒性の強いパラチオンだった。子供たちの虫取りや、夜の風景の誘蛾灯は、農薬の散布にとってかわられていった。

昔も暑い夏は終わり、秋になる。

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田植えが終わり

2023-05-30 18:36:53 | 農業の事

5月30日(火)

【梅雨入りしたような天気。関東は外される。午後、雨は上がり、薄日位になり、畑に、2時間ほど出てくる。】

田植えが終わると、稲の栽培管理は、大人たちの仕事。畔草刈りは、鎌を使う。田の草取りは、田んぼに入り四つん這いになり、両手の指を田の泥の中に入れて、かき回し、小さな草は水に浮かしての除草。草が育ちすぎると引っこ抜き泥に埋めなければならない。手押しの除草期はあったと思うが、畝間はやれても、株間や苗の周りは手でやっていた。米つくりで、最もつらいといわれる除草作業は、最低でも二回くらいか。丁寧な人は三回もやっただろう。苗が育ち、穂を作り始めるころには、稲株が繁茂し、田面を覆う。陽の光が差さなくなると、草も育たなくなり、除草から解放される。

子供たちの手伝いは、主に畑仕事に回される。田んぼ仕事の合間に、畑では、いろいろな野菜を作る。ほとんどすべてが、自給だから、イモ類、大根などの根菜、ナスやウリ類の果菜、菜っ葉など。畑仕事も全部、鍬での作業。耕す三本鍬、畝作りは平鍬で土をすくい上げながら作っていた。肥料はほとんど、下肥。天秤棒で担いだり、荷車やリヤカーに積んで、引いて行っていた。ゴボウや長芋など深く伸びる根菜はスコップを使って掘っていた。サツマイモや、ジャガイモは鍬で土を掘っての収穫だ。収穫したものの運搬も、背負子や、リヤカー。一輪車などは、かなり後になってからの記憶だ。とにかく、なんでもすべて、人力による作業だった。

畑や田んぼのあちこちには、桑畑も散在していた。養蚕をやっている農家もあり、桑は大事な作物であった。そして、子供達には、うれしいおやつを提供してくれる場所だった。初夏のころには、青から赤、そして紫色に熟した桑の実取は、手伝いの合間の楽しみだった。そのまま食べたり、茎を折って皮だけ残したフキの葉を漏斗のように丸め、その中に桑の実を詰めて、ぎゅうっと握ると、紫のジュースが、葉の付け根から皮をつたって流れ出る。大きく口を開け、首をちょっと曲げて、フキの皮を口に含みジュースを吸う。口の周りを紫に染めて、夢中になっていた。

そうこうしているうちに、夏も終わり、秋になる。

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田んぼの準備

2023-05-29 17:03:29 | 農業の事

5月29日(月)

【朝から、しとしと雨が降ったりやんだり。その気になれば、外仕事もできないことないが、雨休みとする。草刈りで疲れた体にはよい休み。】

どこの農村でも、そうだったろうが、田植えは、総出のお祭りのようなにぎやかさだっただろうが、そこまでの準備は、きつい重労働だった。

ほとんどが、人の手で使う道具を使い、土を起こし、砕き、均平にする。全部手作業だ。道具はその地域や、土質、水入れの自由さなどにより、様々だと思うが、私の記憶では、三本鍬、平鍬が主な道具だった。

稲刈り後の乾いた田んぼを三本鍬で耕し、土を起こす。水を入れて、畔塗(畔付け)をする。平鍬で今までの畔の表面を削り、水で練った土をつけて塗り込む作業で、モグラやケラの穴をふさぎ、水持ちを良くする。耕した土は、水を入れて柔らかくして、三本鍬で打ったり引いたりして土を細かくし、平らに均しやすくする。土が細かく、やわらかく、どろどろになったら、水を張ってレーキ(トンボとかいう地域もある)で平らに均す(代掻き)。

こうした作業にどのくらいの時間がかかったのだろう。ようやく、田植えができるようになる。田植えは、田植え綱、線引き機、田植え枠などいろいろあるようだが、木の桟で作った六角形の田植え枠を転がして、他の表面に印をつけて、苗を植えていた。

時代的には、すでにエンジンをつかった機械もあったようだが、見た記憶はない。馬や、牛をつかって鋤やマンガ(馬鍬)で、田んぼ作業をする農家もあったが、それは、広い面積を経営する農家で、私の住む集落では、二件ほどだった(40戸ほどの内)と記憶する。

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農繁期休暇

2023-05-27 18:55:45 | 農業の事

5月27日(土)

触れたこともあると思うが、私が小学校に通う頃には、1950年代だが、農村地域では、春の田植え時期と、秋の稲刈り時期には、一週間ぐらい、学校は休みになった。子供たちの保頓田の家では、稲作をやっている。そして、当時はすべて人の手作業での農作業だったので、米つくりという、ある程度まとまった面積で、同じ作業が集中する田植え時と、収穫作業の稲刈り時は、それこそ、猫の手も借りたいほどの忙しさだった。年齢が小さくとも、下の子供の面倒を見たり、子供達同士で遊ぶなど、忙しい大人の世話にはならずに過ごさなければならなかった。そんな時、小学校に入りたてであったとしても、それなりの労力であり、高学年になれば、大人並みの作業をする立派な担い手であった。

少しだけの米つくりしかしていない我が家でも、休みになると手伝いはしたし、家の仕事が終わると、親戚の手伝いに駆り出された。

苗は、田んぼに水を張った水苗代で作っていた。裸足で田んぼに入り、15センチ以上に育った苗を素手を泥の中に突っ込んで、苗取りをする。値を傷めないように丁寧に、しかし、スピードも求められる苗取り。根についた泥を田の水で洗い、陽よ握りほどにまとめ、藁で縛っておく。その日植える分を撮り終えたら、田んぼに運び、家族総出の田植えとなり、手の空いている親戚たちもみな手伝いに集まる。そんな田植えは、当時の農村のあたりまえの風景だったし、農村全体の春の生き生きしたエネルギー溢れるひと時だった。

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田畑の記憶。

2023-05-26 18:48:12 | 農業の事

5月28日(金)

【今日は、花畑。モアでの草刈りをする。刈払機とははるかに違い、ほどには疲れない。】

1948年(昭和23年)、新潟県の魚沼地域の農村で生まれた。家のすぐ裏には、清流といわれる魚野川が流れている。城山と呼ばれる一番高く見える山を含む山々がぐるりとめぐる盆地の一角。遠くには越後三山が美しく見える。八海山、中ノ岳、越後駒ケ岳の三山。冬には、二階から出入りした方がよいほどの豪雪地帯。夏は盆地ゆえの蒸し暑さ。時折の川風に一息ついて、昼寝から覚める。そんなところだった。

農村ではあるが、我が家は農家ではなく、父は町役場に努める公務員だった。1反弱くらいの田んぼと、それよりだいぶ広い(3反ほどか?)畑があった。朝晩と日曜、土曜の午後の父の仕事場だった。木でできた荷車、いつ頃からはリヤカーの荷台に乗っかって畑に連れられて行った記憶はある。田んぼに入った記憶、畑で手伝って、芋ほりをしたり、大根を抜いた記憶。我が家での農業の記憶はそんなものだ。

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生涯

2023-05-25 18:27:33 | 農業の事

5月25日(木)

【午後、2時間足らずだが、田んぼの大土手の草刈り。やっと、大変な草刈りは終わった。2時間足らず、といったが、刈払機での草刈りは、これくらいの時間が限度だ。がっくりつかれる。】

75歳になり、この年での田植えを終えた今、農業を生業にしてきた私として、振り返るとしたら、農業の事だろうし、米つくりの事だろうし、農を中心に据えた生活の事だろう。私たちの年代のものにとって、生涯のどこかで、農とかかわることのなかったものは、ほとんどいないだろう。そして、その多くは、農的環境の中で生まれ、育ってきた。そして、いつの間にか、農的なものとは全く離れて、生きるようになっていた。今の日本の社会のありようそのものが、私たち世代の生涯のいきついたところといってよいのではないか。いわゆる、団塊の世代の生涯。

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