副題は「参加保障型の福祉社会を作る」。帯には「人間を『手段』としない社会を取り戻す。」同じく「経済学から民主主義を再考する」ともある。
そうだな。「経済学から民主主義を再考する。」ここがポイントか。
神野先生は、財政学者。東大名誉教授。政府の審議会委員も数多く務められる。スローライフも唱えられているな。
私は、自治体学会の大会の時、お会いする機会があって、懇親会の時などご挨拶などさせていただくことがあるが、先生のお人柄は、実直にしてやさしく、ひとを受け入れ、権威主義的なところがない、というか。大学を出た後、いったん日産自動車に勤務された経験があり、その後、大学院に戻られるという経歴の方である。
北欧の福祉政策や教育政策についても造詣が深く、著書もお持ちである。
さて、先生によれば、
「社会が方向性を見失い、希望を喪失してしまった危機に苦悩している現実は、社会の運営を市場に任せれば、良き社会が形成されるとして、ただひたすら経済成長を追い求めた結果である。」(はじめに 3ページ)
いまの、日本の、またグローバルな問題は、新自由主義、行きすぎた市場優先主義こそが原因であると。
「市場は有効に機能したとしても、格差と貧困という不平等を生じさせ、人間の社会を磨り潰してしまうという致命的な欠陥がある。それだからこそ私たちは、民主主義にもとづいて運営される財政によって、所得再配分をして国民の生活を保障し、人間の社会を守っていく福祉国家を築いてきたはずである。」(3ページ)
しかし、「福祉国家」は現在行き詰り、問題を抱え、その解決策として新自由主義的な『小さな政府』が唱えられるようになったという流れがある。
先生は、新自由主義的ではない、また別の解決が必要なのだとおっしゃる。
「本書では、ポスト福祉国家のヴィジョンを『人間国家』と名付けている。市場とは、人間を相互に『手段』だとみなす関係である。福祉国家が行き詰ってから、私たちは社会における人間関係を、人間を『手段』だとみなす市場での関係に置き換えようとしてきた。そのために喪失した人間の社会の方向性を取り戻すには、人間を相互に『目的』とする人間関係を再創造し、人間を解放しなければならないからである。…(中略)…社会システムが備えている『共生意識』を基盤に据えて、『人間国家』のヴィジョンを描く必要がある」(4ページ)
現在の問題の解決には、ひとがそれぞれ個別に自分個人の問題として解決しようとして果たされるものではない。「国家」がどう機能するか、どう働くか、「政府」が何をするのか、ということが大切なのである。その国家を先生は「人間国家」と名付ける。
「未来へのヴィジョンを描いて、ハンドルを操作していくのは、政府の使命である。社会全体の調整機能を市場に委ねようとすることは政府の責任放棄である。/しかし政府の決定の結果責任を引き受けるのは、国民一人ひとりであることを忘れてはならない。」(5ページ)
「国家」がどう動くか、という際に、もう一方で、国民一人ひとりがどう責任を果たすかがということが問題とされる。
「国民」と離れた「国家」があるわけではない。もう一方で「国民」が護られるためには「国家」の働きが不可欠である。
つまり、民主主義がきちんと機能している国家こそが必要なのである。
歴史を少し振り返ってみる。
「福祉国家とは、現金給付と租税を組み合わせた所得再分配国家である。所得再分配は国境を管理する中央政府にしかできない。しかも、福祉国家は重化学工業を基軸とする工業社会を基盤とするため、全国的な交通網もやエネルギー網という社会的インフラストラクチュアを整備する。そのためにも福祉国家は中央集権的にならざるを得ないのである。/つまり福祉国家とは国民から『遠い』政府による『参加』なき所得再分配国家だった。」(157ページ)
それが行き詰る。
国民から「近い」、国民の「参加」が保証された国家こそが目指されなければならない。
つまりは、「地方分権」が目指されなければならない。民主主義がきちんと機能する国家とは、がちがちの中央集権ではありえない。「地方分権」のさらなる進展こそが、必要である。小さな、身近なレベルでの「参加」が実効あるものとして機能し、それの積み重ねとしての中央政府が機能するみたいなこと。
念のため言っておけば、神野先生は市場社会を否定するわけではない。それは一個の必然である。しかし、市場だけが独立して存続しているわけではない。市場と社会と国家が絡まりあって存在しているのだ。
「市場社会を統制するのは市場ではない。トータル・システムとしての市場社会を制御するのは民主主義である。」(181ページ)
民主主義がきちんと機能する国家が、市場を統制するのだ。(これは、いわゆる計画経済のように、市場なしで完全に統制しようとするということではない。)
市場と社会と政府とが、絡まりあって存在している。
おおざっぱに言えば、柄谷行人の語る「資本=ネーション=ステート」の三位一体と同じこととなろうが、ここでは、ひとつの見通しとして述べるだけにしておく。
なんというか、この本では、新しい大きな理念を掲示することで、一挙に魔法のように現在の社会が改善され、すべての問題がクリアされる、などということはないのだ、ということが改めて確認されているともいえる。しかし、それは、これまで言われていることの中にこそ、解決の手掛かりはあるのだ、地道にそういう道をたどっていくことが、解決の道筋なのだ、ということだ。これも一種の「青い鳥はここにいた」という話である。道筋はある、のである。
「人間国家」とは、現時点で求められるべき、良き「国民国家」、改良された「国民国家」、ある意味ではバージョンアップされた「福祉国家」ということなのだろう。
う~む、いまひとつ、正確に言い当てられた感じがしないが、今夜のところは、このあたりで、ひとつの見通しのようなものとしておく。
以上で、この本の紹介の大筋としたいが、別に、自治体の内部で、民間活力の導入だとか、行政改革による効率化の推進などと語られるとき参考にすべきことを引用しておく。効率性の追求と言ったとき、えてして、下に言う内部効率性のみが追及され、外部効率性がないがしろにされる場合がある。(もっとも、外部効率性の御旗のもとで、内部効率性がないがしろにされてきた歴史もあるに違いないが。)
「『民間』という言葉も、市場あるいは企業を必ずしも意味しないのである。」(184ページ)
「内部効率性とは、公共サービスをいかに低いコストで提供できるかという効率性である。…(中略)…外部効率性とは、公共サービスが地域コミュニティの住民のニーズと合致しているかどうかという効率性である。」(173ページ)
「地方分権では、内部効率性と外部効率性の二兎を追う必要がある。」(174ページ)
また、ずっと以前に、先生の講演において、社会保障も、中央、地方とは別個のもうひとつの政府なのだと語られたことがすっと引っかかっては来たところだった。
「従来から著者は『三つの政府体系』を唱えてきた。『三つの政府体系』とは、中央政府と地方自治体だけではなく、社会保障基金も統治機構の政府として設定するという主張である。」(176ページ)
年金とか健康保険とかの社会保険の分野も、分権化できると語るべきなのではないか、と当時は思っていたのだが、どうやらそういうことでもないようである。行政サービスにおける「現物給付」と「現金給付」の違いがあり、さらに中央政府は、それらの「財源保障」が任務だということのようだが、このあたりの紹介はここでは割愛させていただく。もちろん、この本の中では明確に書かれている。
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