最近の事件の中で、簡保の不正な契約のことほど、現代を象徴する事件はないと思う。
現代社会の根源的な病巣があからさまになった事件。
一見、最適解を求めてきたつもりが、実は最悪の選択でしかなかったというような逆説的な出来事。
ところで、最近、事件という言葉を、報道において見かけることがとんとなくなった。官庁であったり、市役所や教育委員会、あるいは事件を起こした会社が記者会見等で謝罪の広報する際に、「今回の事件について…」とは決して使わなくなっている。その代わりにどんな言葉を使っているかと言えば「事案」である。
今回の件についても、日本郵政やかんぽ生命の代表者は、記者会見で「事案」という言葉を使っていた、と思う。(使ってないかな?)
「事件」という言葉が、「刑事事件」をのみ意味してしまうような、悪しき意味合いを持ってしまったので、もっとニュートラルに「起こった出来事」を表す言葉として「事案」という言葉を使う。
しかし、もともと「事件」という言葉も、ニュートラルな「起こった出来事」という意味でしかなかったはずだ。いつのまにか、「事件」とは、法律を犯した「刑事事件」、さらには「殺人事件」、「凶悪事件」のように悪しき犯罪を表す言葉になってしまった。
会見で釈明、謝罪する責任者が、これは必ずしも法を犯した「事件」ではないかもしれないということで、価値中立的に聞こえる「事案」という言葉を多用するようになった。まあ、すでに「事案」という言葉は、ほぼ「事件」と同じニュアンスに聞こえるようになってしまったと思う。むしろ、責任逃れのニュアンスが強く感じられる言葉に成り下がってしまったというか。
こういう言いかえ、言葉の意味の変化、意味の重点の遷移というのは、言葉の持つ本性みたいなもので、よくある話である。霞が関言語とか官僚言語とか言われるものの一つの典型、というようなことでもある。むしろ、こういう変化なしには、言葉自体が死んでしまう、というほどの重要なポイントですらある。
さて、貨幣とは、信用である。
ひとが貨幣を受け取るのは、それが次に買い物に使えるからである。売っているものであれば、そのお金を使えば買えるからである。なぜ買えるのかと言えば、また別の商品をもっている人が、お金を受け取ってくれるからである。ここで受け取った人は、そのお金を使ってまた別のものが買える。この無限の連鎖がお金の正体である。お金があれば物が買えると人が信じているからである。
お金を持っていても、何も買えないとひとが思うようになれば、だれもお金を受け取らない。つまり、お金が使えなくなる。お金がお金でなくなる。
お金がお金であるのは、ひとがそれを使えると信用しているからである。
信用を失った貨幣は、貨幣ではなくなる。
つまり、貨幣とは信用である。
ところで、経済とは、お金を貯めこむことではない。あるいは、儲けを得ることではない。
ここのところ、多くの人々が誤解しているのかもしれない。
利潤を得ることが経済の目的ではない。営利企業と呼ばれる組織の目的も、利潤を得ることではない。
株式会社は、利潤をあげて、投資を回収することが目的なのではない。
しかし、多くの人は、株式会社とは儲けを得るための組織だと思い込んでいる。「営利企業」という言い方は、確かにそういう誤解に基づいているのだろう。
(NPO―非営利活動法人の「非営利」の定義を見ると、「営利」とは「非営利」とまったく反対の概念である、などとは言えないことがよく分かる。一読してよく考えてみる価値のある言葉である。)
繰り返し言っておく。株式会社とは、利益を上げることが目的の組織ではない。
ここに、現代社会の最大の問題がある。
では、何が目的なのか。
それは、それぞれの得意分野で社会に貢献することが目的なのである。
社会にとって必要なモノやサービスを供給することが、株式会社や、その他すべての組織の目的なのである。
(ただし、必要なモノやサービスとは、画一的なものではない。あらかじめ誰かが計画して、決定しておけるものではない。そこに、人間の自由があり、人間社会の妙味がある。この点については、まあた、別の機会に。)
経済のもとの言葉だという、「経世済民」に立ち返ればよい。
ちなみに、必要なモノやサービスの提供が円滑に進むようにするための道具が貨幣であり、ここは大きく端折って言うが、マネジメントがきちんとうまく進んでいることの証が利潤なのである。(念のため言っておけば、ここには偶然の要素も大きく影響する。)
株式というのは、そもそもは儲けを得るための投資ではない。社会にとって新たに必要と思われるモノやサービスを、新しく生み出し供給するために、志ある人々が、その費用を、協力して分担して出し合う、出資する、それが株式なのである。社会にとって有用なものが供給できれば、利潤が生じ、配当も得られるのである。有用なはずと思ったものが、結果、本当に有用であった証左が利潤であるはずである。
(念のために言っておけば、ある社会にとって有用なものが、他の社会にとって有用であるかどうかは分からない。一概には決められない。そこにも、世界史の大きな問題がある。たとえば、イギリスにとって有用なものが、南アジアにとって有用だったかどうか。)
株主主権などということが言えるとすれば、それは、志ある出資者だからこそであって、経営者や勤労者という重要なプレイヤーを抜きにした株主主権などという物言いは噴飯ものでしかない。
ただね、ということがある。
世の中、いつのまにか本末転倒してしまった。
本末転倒してしまった末に、その極限にまで行きついてしまったのが、日本の、そして、世界の現在である、ということなのだろうと思う。
お金を増殖するためにお金を使うという本末転倒。お金がお金を生むという本末転倒。
問題なのは、リスクがあるとしても、結構、お金からお金を生み出そうとする企図が成功する場合もあるということである。
貨幣とは信用である。
極論を言ってしまうと、問題は、その貨幣の信用を悪用しようと思えばできてしまうということである。
しかし、多くの人びとは、基本的に貨幣を信用している。悪用しようとするものが、少数派である限りは、なんとか、貨幣のシステムは維持されていく。なんとか、回っていく。つまり、悪用しようとする少数派は甘い汁が吸えるのである。もちろん、リスクはある。控えめに言えば、吸える可能性はある、のである。
だが、しかし、今、現在、多くの人がそのからくりに気づき始めているのではないだろうか。
あるいは、からくりは知らなくても、みんながみんな、甘い汁を吸おうと試みるような世の中になってしまったのではないか。
あるいは、悪用しようとするものが、ひょっとすると多数派になってしまったのではないか?
貨幣とは信用である。
一般的には、大会社は信用される。銀行は信用される。あるいは、地域で地道に経営してきた老舗は信用される。
詐欺師は、そうと分かれば、信用されない。
国家は、信用される。一般的には信用される。これまでは、なんだかんだ言いながら信用されてきた。
最近でこそ、ビット・コインとか、セブンペイとか、様々な電子マネー、疑似通貨、あるいは地域通貨なども含めて、使用されるようにはなった。昔から、約束手形とか、小切手、商品券もあった。(もちろん、破綻もあれば、不渡りもある。)
しかし、貨幣の信用は、まずは国家が担ってきたはずである。ビット・コインなどが、国家の発行する通常の通貨なしにも流通し得るものかどうか、ひょっとすると不可能ではないのかもしれないが、普通のお金と交換できるからこそ、流通しているものではないか。
ビット・コインが、円だとかドルだとかの普通の通貨と交換できないとなれば、一瞬にして、流通不能となる、というほうがありそうな話である、と私は思う。
最近の電子マネーも、実は、国家が発行する貨幣なしには成り立たないのではないか。
貨幣の信用とは、実は、国家の信用に他ならない、はずである。
国家自体が、貨幣の信用の悪用に走った、となると、いったい、どういうことになるのだろうか。世も末である。字義通り、世が終わる、国家崩壊の危機に直面している、ということにならないだろうか。
国家自体が、マネーゲームのプレイヤーになって大儲けを企むとなると、いったいどういうことになるのだろうか?
(国家間同士では、プレイヤーの位置に立たざるを得ないのかもしれないが、企業法人を含む国民と同等のプレーヤーであっていいのだろうか?ゲームの脇に立つ審判員でこそあるべきなのではないか?)
郵政民営化という国家施策の果てに、悪しき営利企業と化した郵便局が、それでもなお人びとが信じる国家の信用を悪用して、社員にも非人道的な業務を押し付けて、国家的な詐欺を行った、というのが、今回の事件である。たぶん、会社のトップが、わざと悪事を働いたということではないのだろう。「民間活力の活用」というお題目に乗せられて、自分たちは、国家の施策に乗り、正しい行動を選択してきたのだと思い込んでいるのだろう。
主観的には、正しい選択をしていたつもりが、結果としては、巨悪に加担する、というよりも、巨悪の張本人となってしまったという悲劇。張本人とは、日本郵政の幹部だけのことではなく、中央政府、関係官庁の官僚、政治家のことである。
そしてこの悲劇は、その張本人の非劇であるのみならず、日本国民全体にとっての非劇である。
(民間の保険会社のほうが、金融庁の規制もあるからかもしれないが、まだ、紳士的、合法的に振る舞わっている、振る舞わざるを得ない。信用を失うまいと必死になっているように見える。)
(ちなみに、郵便局の全体が、すべて巨悪だ、というのは違うだろう。大かたは、必要な業務を正当に、信用すべき形で遂行していることに間違いはないはずだ。)
国家の根幹を揺るがす大事件である。
そろそろ、営利優先のマネー神話、成長神話から目覚めて、人間らしい暮らしを優先する社会に生まれ変わっていい時期となっていると思う。
人類は、リーマン・ショックだって生き延びたし、戦前の世界大恐慌だって生き延びたのである。ギリシャだって存続している。新自由主義、金融資本主義をやめても、どうにかなるはずである。
そもそも、利潤追求のために仕事をしている人は、人口の1%もいないはずである。ウォール街とか、証券会社界隈は別として、地域社会の地場産業の経営者たちを見ても、そうではないか?
そろそろどうにかなるべき時が来ているはずだ。
(しかし、ここには『共産党宣言』もないし、『聖書』もない。「維新」も「官僚組織の解体」もない。「生活を保守」しつつ、少しづつ「改良」していく道しかない、のだろう)
※参考文献としては、下記のようなところか。
柄谷行人「哲学の起源」(岩波書店)にふれて
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/7761b6b88da13d8d01a0ab118e44abe5
大黒弘慈 マルクスと贋金づくりたち 岩波書店
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/d8068904b7fca1d5a1731a8874f48b47
平川克美 グローバリズムという病 東洋経済新報社
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/05559792539f3842886189d062fdfc28
平川克美 「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ ミシマ社
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/e77cdc17cb1adfed9b0e626e0017013a
あと神野直彦、宇沢弘文の著作についても、このブログで書いている。中沢新一もだな。藻谷浩介とか。大澤真幸もだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます