ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

橋爪大三郎・大澤真幸 ゆかいな仏教 サンガ新書

2014-02-15 14:35:50 | エッセイ

 2011年の「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)は、面白い本だったが、キリスト教関係者からは問題視されたところもあったようだ。

 こんどは、仏教。同じふたりの対談である。このふたりは、言うまでもなく、現在、高名な社会学者である。

 どちらにしろ、その宗教の内部の人間として語るということではありえず、俯瞰して、外側からの視線で語るわけで、批判めいたことともなる。キリスト教の信者からみれば、許しがたいもの言いがあったのかもしれない。

 しかし、今回の仏教に関しては、批評的であるよりは、好意的、というふうに見える。

 まあ、日本人だからねえ、ということかもしれない。

 大澤真幸のほうは、自分は仏教徒ではないと言っている。橋爪は、この本を見る限り、そうだともそうでないとも言っていない。しかし、この出版社(サンガというのは仏教の出家修行者の集団のことを言うらしい。)からすでに何冊か本を出しているようで、少なくとも大澤よりは、仏教に造詣が深いとは言えるようだ。(もちろん、大澤も、相応に仏教は深く読み込んでいる。)

 実は、私自身、仏教徒である、と言ってあながち間違いではないと思っている。キリスト教徒でないのは間違いないが、仏教徒ではありえる。もちろん、曹洞宗の寺の檀家であるが、日本の場合、仏教の寺の檀家であることと、仏教徒であることは、つねに直接イコールであるわけでない。

 檀家であるとは、すなわち、仏教徒であるということなのだ、という議論は成り立ちうるのだろうが、このあたりのことは、仏教とは何か、あるいは、宗教とは何かという哲学的な、あるいは、宗教社会学的な厳密な議論を待つところである。まあ、大方の人は、檀家であっても、自覚的に仏教徒だとは言わないだろう。考えてみれば不思議なことである。

 この本は、日本人がなぜお寺の檀家であるのに仏教徒だと自覚しないのかという点に絞って議論が行われているわけではない。インドでの成立の時期、初期の時期の原理的なところについて議論されている、というところ。

 私が、お経として読んだことのあるのは「般若心経」のみである。葬式や法事の際に、「修証義」という曹洞宗のなんというか、修行の心得を述べたものといえばいいか、明治時代に書かれたものらしいが、5章ある章だての1章づつを称えることはあり、はあはあなるるほどと思ったりもしている。

 あとは、吉本隆明とか、宮沢賢治に関してとか、河合隼雄とかと通して仏教の考え方に触れることがあるということ。

 そういうなかで、仏教は合理的であると思ったりする。というか、言っていることが、あまり大きな矛盾なく納得できるという思いはある。

 それと、十代の頃から、人生の大きな矛盾みたいなものと向き合う中で、哲学に救われた、心理学や精神分析を学ぶことに救われたという思いは、実は、あるのだが、その中で、仏教に救われたという思いも大きいものがある。「色即是空・空即是色」である。

 「色、即ちこれ、空なり。」この言葉は、何回反芻したか分からない。

 西洋哲学の論理、明晰判明な論理というのは、キリスト教と密接な関係があるのは言うまでもないことだが、実は、神の子として生まれ復活したキリストというところに根本的な矛盾、非合理性があるわけで、そこは、どうしても納得しづらいところがある。それに対して、仏教は、矛盾がない。いわゆる方便として、人々に分かりやすくイメージしやすくするためのうそ、というか、レトリックというか、そういうところを取り除いた根本的な原理みたいなところの説明は、非常に合理的で矛盾がない。

 まあ、そんなこんなで、私は仏教にとても親和性を感じているわけだが、本を読み始める前に、そのあたりのなりゆきが、ふたりの学者と共通しているのだろうなという先入観念があって、読みやすく読み始めた。で、その先入観念は誤っていなかったというところである。

 橋爪大三郎によるあとがきを引く。

 「日本の仏教は、アンティーク・ショップの店先に置かれた古びた家具、みたいになっている。(中略)そんな仏教も(…)ちょっと磨けば、立派な家具としてよみがえる。/そこで、仏教について対談しようと大澤真幸さんと相談がまとまった。『仏教は最近、元気がないなあ、がんばれ』、ではない。その反対に、『仏教さん、あなたはあんまり立派です、ちょっとは私たちに、知恵と元気をわけてください』なのである。」(376ページ)

 ということで、「われわれの対談は、ジャズのジャムセッションのようだと思う。」(377ページ)というこの対談、一読をお勧めしたい。

 もう少し別なところからも引いておく。教育機関の役割について、これは大事なところと思う。この本の紹介としては本筋ではないかもしれないが。

 「孔子も学校をつくった。プラトンも学校をつくった。学校とは、相対的に隔離された空間をつくるという意味ではないですか。/現代にも大学というものがあるけれども、何をしているかというと、政治とか経済とか宗教とかそういう、社会の中にあるさまざまな勢力から切り離されて、純粋に、アカデミックに研究をすることになっている。」(104ページ)

 全く隔絶してということでないのはもちろんのことだが、相対的には隔離される必要がある。ある意味、大切に保護されている必要があるわけだ。


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