ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

山田詠美「明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち」幻冬舎

2013-09-01 00:24:44 | エッセイ
 自分、とか言うとつい「ズブン」と反応してしまう、ということはさておき。
 ここでいう「自分」とは誰か、そして「あなたたち」とは誰か?
 明日死ぬかもしれない、というのは、誰にとってもそうだ。ひとが人である限り逃れ得ない。それこそ、「宿命」にほかならない。ひとは誰でも死ぬ、このことこそ「宿命」という言葉の本来の意味であるはずだ。それ以外の「宿命」は、それがどんなに過酷なものであったとしても、死ぬという冷徹な事実に比べれば、いささかの比喩であることをまぬがれない。
 しかし、いつ、どのように死ぬか。それはどんな場合でも事件になってしまう。
 そして、この小説にも、そのような事件が起こる。もちろん、ミステリーではないから、探偵が登場して解決する、そんなタイプの事件ではない。
 ある人間が死んで、残された家族(ひとつの作られた家族)が、そのあとどう生きていくのか。どう自問しつづけるのか。
 問題は母親である。そうだ、いつでも問題なのは「母親」だ。娘は、母親の圧倒的な影響力、ほとんど暴力ともいうべきむき出しの力によって翻弄される。もちろん、息子ならなおさら。
 精神を蝕まれ、アルコール依存に落ちていく美しい母親。実の親であり、継母でもあるひとりの母親。最後には、この母親もほとんど死ぬ。死ぬのか生きるのか、しかし恐らく、遠くないさきには死ぬ。
 この小説の第一章は「私」、第二章は「おれ」、次は「あたし」、そして最終章は「皆」と題される。ある「作られた家族」の歴史が、四人の視点から描かれる。章ごとに語り手が変わる。最後の章は、作家の神の視線で書かれる、あたかもそういうふうに進行していく。
 さて、今夜は、急に雨が降り出し、遠くで雷が鳴った。この小説にも、雷が落ちる。いや、光のみで、音が鳴らない稲光というべきか。あくまで静謐な雷が、ひとつの家族の在り様を根底から変えてしまう。
 いつのまにか、雨も止んだようだ。

 ところで、この表題に使われる「自分」は、一部の人々が自称として使う「自分」ではない。「僕」とか「俺」とかいう代わりに、「自分」というひとびとがいる。だから、たとえばNHKの連ドラの種市先輩のように。(かれは、ジブンでなくてズブンだけれども)
 ここで「自分」と使うのは、「わたし」とか、「おれ」とか、「ぼく」とか使いたくなくて、性別や年齢を限定したくない、抽象的に、一般的にしておきたいという意図なのだと思う。
 しかし、あまちゃんも、来週は、いよいよ(と言っていいのかどうか躊躇はするが)あのときだ。今回のユイちゃんの描き方からすると、恐らく、そういうことになるだろう。ああ、ユイちゃん。もちろん、役の中のどの役がそうなったとしても、ああ、と慨嘆せずにはいられないのだが。
 来週は誰かが死ぬ。
 そして、もうひとつ、別の話。
 テレビのニュースで流れた、車の助手席に座った固い表情の黒い服装の女性の母親のこと。遺された娘のコメントは、泣かされた。母親は、稲光のようであったに違いない。
 山田詠美の描く母親とは、全く違う母親だが、どちらも、意図せざる暴君としての母親、であろう。
 世の女性の皆さん。母親はかくも強いものなのです。(いわゆる母親は強し、というときの強さとは、違った意味合いで)

 ところで、これは、また全くの蛇足なのだが、「あまちゃん」の、天野春子(小泉今日子)の娘時代を演じている女優が、可愛い。いとおしく可愛い。望み叶わず、ついに表に出ることができない彼女の宿命が哀しく、いとおしい。この役をやらなかったら、特段目にとまることはなかったかもしれないのだが。ユイちゃんの強さも見事だけどね。そして、娘は、母親となっていく。

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