「みなとのがっこう」というプロジェクトは、フェイスブックによれば、「気仙沼を中心に地域をまるごと学びのフィールドとして捉え、多様な視点でルーツを探り、発見し、好奇心によって参加者自身が新たな学びを生み出す活動体です」、とある。だれが主宰者なのか定かではないが、山田康人氏(気仙沼在住経験あり、気仙沼好き)、齊藤道有氏(気仙沼在住)、齊藤岳大氏(気仙沼出身)らが中心のようで、これまで川島秀一東北大学教授(長く気仙沼在住だったのに、今は、むしろ出身者)や、作家熊谷達也氏(気仙沼在住経験あり)を講師に迎え、学びを続けているようである。
私は、熊谷達也氏の一回目に参加したが、どうもたまたま川島さんの回には、別件がぶつかって参加できていない。3月12日(土)のアンカーコーヒー マザーポート店での今回が久しぶりの参加となった。
みなとのがっこうvol.4は、「STORY『 作家・熊谷達也から見た気仙沼 第2章
~『ティーンズ・エッジ・ロックンロール』から『希望の海 仙河海叙景』 ~ 』」というテーマであった。
熊谷達也氏は、どちらかというと大人しい、押し付けがましいところのないお人柄で、とつとつと語り始められる。しかし、もちろん、語るべき言葉はあり、着実に話を進められる。
和合亮一氏が、被災地に暮らした詩人であるとすれば、熊谷氏は、被災地に暮らした小説家であり、被災の前の姿も深く知る、その双方を知る唯一の小説家である。ある編集者から、そう言われたと氏は語る。そうか、そうだったかもしれないと氏は思う。そこから一個の使命のようなものに氏は気づく。
いや、震災の後、氏は語るべき言葉を失ったのだ、という。もはや小説は書けないとまで思いつめた。この現実に対峙できるフィクションはない。存立しえない、と。
しかし、若干の時を経て、熊谷達也氏は、自らの使命に目覚めた。
それが、気仙沼を描く、ということであった。現実の気仙沼自体ではないのかもしれないが、気仙沼に深く重ねた架空の都市「仙河海市」を描く。
仙河海叙景シリーズ、あるいは仙河海サーガとも呼ばれるが、これまで発行された単行本4冊は読ませていただいた。
今回は、第5作「希望の海」(集英社)出版のタイミングでもある。
さて、氏のお話を聴きながら、ふたつのことを考えた。
ひとつは、現実の街とフィクションの関係である。
気仙沼自体は、私は、生まれ育った街であり、どこかがとても魅力的な街であるというふうに思って生きてきた。特に、高校を出て街を離れ、遠く東京から眺めたとき、海があって港があって、不思議な美しさに満ちた街であると見えた。その後、この街に戻ってきてからも、ずっとその思いを抱えて過ごしてきた。このあたりは、ひょっとすると、この街を出て暮らしたことのないひとには分かりにくいことだったのかもしれないが。
その魅力的な街が、フィクションの、小説の舞台となることによって、なおさらに美しく魅力的な街に変身する。メタモルフォーゼしてしまう、ということがある。これは、世の中に実例を挙げれば、きりがないほどたくさんある。
パリでも、ベルリンでも、東京でも、ニューヨークでもそうだ。たとえば、そうだな、尾道とか、函館とか。
そして、熊谷氏の小説には、魅力的な人物が登場する。実は脇役には、実在の人物をモデルにした人物がたくさん登場して、それも、またとても魅力的な人物に描かれ、小説の魅力ともなっているが、筋立てを担う中心的な登場人物は、ほぼすべてフィクションであると言っていいはずだ。
そういう人物たちを、ぜひ、映像でも見てみたいということは、素直に思わされることだ。映画化される。そういうことは、ありうることだし、われわれとしては期待したいところだ。
しかし、良く考えると、映画化することは相当に困難なことであることに気づく。
それは、現地ロケができないということだ。
震災前の、気仙沼の魅力的な風景、街並みが写せない。大川沿いの桜並木も写せないし、南町の内湾航路の岸壁、エースポートも写せない。
まあ、映画化は難しいとしても、このシリーズが続いていく限り、もうひとつの気仙沼市は描かれ続けていくわけだし、すでに書かれた作品も読み継がれていく。私の読む限り、書かれた作品はどれも秀いでた作品であり、人間への優しいまなざしがあり、魅力ある人物が登場し、気仙沼人が読んでということだけでなく、普遍的な魅力を備えた小説群であることは間違いないものと思う。たとえばだが、教師としての良き経験のようなものも生きた教育小説でもありえていると思う。
ということで、この仙河海叙景シリーズの存在が、気仙沼の街を、魅力的な街に作り上げていってくれる、という効果、というと言葉が軽い気がするが、熊谷達也氏が、ほかでもない、この気仙沼を舞台に小説を書き続けているということは、何ものにも代えがたい素晴らしいことなのだ、ということがひとつ。
もうひとつは、氏は、あの晩、自分がすべての被災地のひとびとを後ろから見守り続ける、自分は2011年3月11日14時46分のあの時点から一歩も前に進みだせずに、すべてのひとびとが、おのおのそれなりの速度で歩み始める、あるひとは遠くまで進み、あるひとは、ようやく歩み始めたばかり、それらを後ろから見守り続けているのだ、というイメージを語られた。
実際のところは、これらの小説を書き始め発表されてもいるのだから、氏は氏なりの歩みを始められてはいるのだが、ひとつのフィクションとして、14時46分の時刻にとどまり続けているということ。
これは、大きな意味での宗教的な事態であるし、フィクションの力ということでもある。大きな救い主としての小説家、そういうもので、熊谷達也氏はある。そういうものとして熊谷達也は存在する、そういうものに熊谷達也は成る、そんなことがあるのだろうと思わされた、というのがもうひとつのことだ。
それは一個の菩薩であり、宮沢賢治であるということだ。
生身の熊谷達也とは別に、フィクション作家としての熊谷達也は、一個の菩薩でもありうる。
まあ、そんなことを考えた。
「希望の海」は、これから読ませていただくが、これまでの4冊については、下記の通り。(紹介というより、結構、好きなことを書かせていただいている。)
熊谷達也 リアスの子 光文社
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/5cc836586133e36f41fe95014c8314da
熊谷達也 微睡みの海 角川書店
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/be3cb02f2f4149468bc2f2aefab8b21e
熊谷達也 ティーンズ・エッジ・ロックンロール 実業之日本社
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/02d88cedeab06f7ad920d77f2c9e895a
熊谷達也 潮の音、空の青、海の詩 NHK出版
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/a6c987e9149a0269cdf9bb4a6461dcde
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