ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中沢新一対談集 惑星の風景 青土社

2014-09-29 00:12:16 | エッセイ

 中沢新一にとっては、はじめての対談集だという。そうか、はじめてか。

 冒頭に、彼自身がインタビューを受けた形式の「野性の科学または新構造主義」を置き、そのあと、レヴィ=ストロース、ミシェル・セール、ブルーノ・ラトゥール、吉本隆明、河合隼雄、河合俊雄、養老孟司、中村桂子、菅啓次郎、細野晴臣、杉浦日向子、藤森照信との対談を収録する。(吉本は2本。河合俊雄のは、内容は隼雄のもので、河合隼雄関係も2本とも言える。)

 文化人類学の泰斗クロード・レヴィ=ストロースとの対談は1999年、分野的には生化学者になるのか、生命誌の中村桂子とのが2013年でいちばん遅いということになる。序論風の冒頭のインタビューは、2014年1月が初出となっている。

 レヴィ=ストロースは、構造主義の元祖、文化人類学者。ミシェル・セールは、フランスの哲学者、ブルーノ・ラトゥールは、同じくフランスの社会学者・人類学者とのことだが、このふたりはよく知らない。本を読んだこともない。吉本隆明は、つい最近亡くなった日本を代表する思想家、河合隼雄は、ユング派の精神分析家、臨床心理士の大親分ともいうべき大家、文化庁長官も務めた。河合俊雄は、その息子。(ユング派分析家で京大教授でもあるようだが、今のところ、「河合隼雄の息子」を超えた呼び方はないようだ。もちろん、ここに所収の対談も、隼雄のことである。)養老孟司は、「唯脳論」で世に出た解剖学者。「バカの壁」の著者といったほうがわかりが早いだろう。(奥本大三郎と並ぶ虫屋でもある。)中村桂子は、生命誌という言葉を世に知らしめたひと。菅啓次郎は詩人で、大学教授。比較文学なのか。細野晴臣は、あのはっぴーえんどのベーシスト。日本語のロックを成立させた歴史上の偉人。(YMOって言ったほうが早いけど。)杉浦日向子は江戸趣味の漫画家。藤森照信は、建築史家、建築家。都市のおかしな建物を発見紹介した人。(赤瀬川源平の次に、というべきなんだろうな、たぶん。)

 ぼくは、中沢新一の言っていることは、すべて正しいと思う。そう言われてしまうと、まさしくそういうことでしかない、というようなことしか言わない。人間は、地球の表層のたかだか10キロメートルの範囲内でしか生きられない、生存しつづけられないみたいなことを言っているのもまさしくその通りだ。月にも行ったし、宇宙ステーションで何カ月も暮らせるとは言っても、そんなのは例外でしかない。たかだか数名が生き続けるために膨大なコスト(お金もそうだし、資源もそうだし、関わる人間の人数もそうだ)を費やさなければならない。

 はるかかなたに浮かぶ太陽においてこそ人類に有用なエネルギーを生み出す核分裂を、この地球の表層に持ちこむなどばかげたことでしかない、というのもその通りだ。

 そして、よく考えると、いま現在、われわれが、この地球の表層で生きていくにあたっても、宇宙船で暮らすのと同様に膨大なコストがかかっているのだ、ということにも気づく。(つまり、ぼくらは自給自足では生きていけず、分業体制、交換経済、貨幣経済の中にがんじがらめに閉じ込められているということだ。)

 コストとはすなわち、他の人間の関わりである。

 現在われわれは、目に見える、現に共に暮らしているひとびとのみの協力では生き続けていくことができず、全地球的な、グローバルな人間関係の中でしか、生きていけないという恐るべき事実。目に見える、手に取れる範囲でのコストではなく、見ることも聞くこともできないかなたとの無限連鎖のコスト。この連鎖は、おかねで繋がっている。鎖とは、まさしく貨幣、おかねである。

 実際に生存に必要な食糧も、衣服も、住宅も、包括してそれ自身として作り出すことができない。ひとみなすべて、その一部は作ることができる。労働している人は、その一部は作っている。しかし、その一部を除いたすべては、お金で交換せずには手に入れることができない。

 ぼくらは、好むと好まざるとに関わらず、資本主義社会の真っ只中で生きている。

 と、まあ、こんなことはあたり前のことで、そういう前提において、考えるべきは、さあ、どうしなければいけないのか、ということである。

 そこで、贈与、ではある。しかし、この贈与も、現在の社会に、すでにうまい具合に組み込まれてしまっているところもある。(たとえば、クリスマス・プレゼントとか、中元歳暮商戦とか。)

 さて、冒頭のインタビュー「野性の科学または新構造主義」で、人名の名前の出てくるところを抜き出して見ると、たとえば、

 

 「私は学生の頃からジャック・ラカンにも関心を持ってきました。私にとっての構造主義は、レヴィ=ストロースとジャック・ラカンの二人に集約されると言ってもよいかもしれません。」(9ページ)

 「現在の脳科学よりもラカンの進んでいるところは、弁証法を取り入れているところです。(中略)ヘーゲルの『エンチクロペディー』などを読んでみると、ラカンがそこから多くを学んでいることがわかります。」(10ページ)

 「ここで私は自然過程と象徴過程の連続性を強調したかったのです。(中略)理解してくれたのは吉本隆明さんだけでしたね。吉本さん自身が記号過程を記号として分離することを機能主義として批判していました。」(10ページ)

 「ガタリの『分裂分析的地図作成法』はこうした問題を考えるのに、実に豊かなヒントを与えてくれます。ガタリとドゥールーズは、フラクタルやカオス理論を持ち込んでくるのですが、私はそれをラカンの現代数学的な読み替えだと感じました。」(15ページ)

 「ガタリたちが問題としていたことを日本に置き換えるならば、「モノ」は自然と人間の通路となります。ベンヤミンの言っていた「パサージュ」ですね。」(16ページ)

 「ハイデガーの仕事を見ていますと、彼がある種の対称性を求めていたことがわかります。彼はギリシャのポリスの向こう側を見たがっていました。」(21ページ)

 

 もっともっと、人名は出てくるが、主なところは、まあこんなところか。

 インタビューなので、わりとすらすらと読めて、わかったような気になっているが、こうして抜き出してみると、なかなかに難しい。(そうそう、この本にもドゥールーズの名前が登場している。)

 これらは、一連の文章の一部であって、ある事柄を述べており、意味内容も繋がっているのだが、こうして飛ばし読みするだけでは、何のことなのか一向にわからないだろう。こんな抜き書きは意味のないことかもしれないが、どんな人名が出てきたかだけでも、確認しておいていただきたい。

 所収の各対談は、それぞれ、面白い。赤線を引いた引用したい部分もたくさんある。

 細野晴臣のところとか。

 しかし、ここでは、中村桂子との「名付ける科学と語る科学」から、一か所。

 

 「人間のベースは贈与空間にあるままです。/今問題なのは、経済が贈与の空間を解体して交換だけにしてしまおうと突き進んでいることです。(中略)経済学を、あの日本海地図みたいに逆にしてみようと思った。現代の経済学は、贈与というものを、交換だけではうまく説明できない部分に潤滑油のように取り入れるものとしてしか捉えていません。例えばクリスマスプレゼントは潤滑油になりますね。しかし、考え方をひっくり返して贈与を基本にすると、経済学の全構造が変わってくるのではないか。経済学のひとは認めません、こんなことは(笑)。」〈255ページ〉

 

 あの日本海地図というのは、中沢の叔父のあの網野善彦が、ある時見せてくれたという、北と南、上下をひっくり返した日本地図のこと。

 ふむ、その通り。贈与。

 でも、「贈与だよ」と言葉を発しただけで、何かが変わるわけではない。世の中そう簡単ではない。

 しかし、「まずは贈与だよ」と言葉を発すること、これは必要なことであるに違いない。

 あ、そうそう、「贈与」とは、いま、東北の三陸海岸界隈では、むしろ、「支援」とか「ボランティア」とか呼ばれている、その同じ事柄。

 「小商い」とか、「地域産業」も、はじめから「もうけ」があるのでなく、「利潤」を求めるのでなく、まずは「贈与」から始まる。

 というようなところで、この惑星の風景も少しづつ変わりはじめている、というよりも、変えなければならないというべきか、そういうのが、この対談集の主題である、というようなところだろうな。


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