ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

内田樹 街場の戦争論 ミシマ社

2015-06-22 13:41:27 | エッセイ

 最近、いくらなんでも、出過ぎだよな、と、わが内田樹師の本も、少しセーブして買わなきゃ、という感じだったのだけれど、これは、やっぱり読んで置こうかと買ってしまった。

 このひとも、わが師と思い定めたひとのひとりで、だから、内田「氏」とでなく、「師」と書いているのは間違いではない。

 ご本人自ら「2013年の暮れから2014年の夏にかけて、半年ほどの間に10冊以上の本を出しました。これは明らかに異常なペースです。」(まえがき)

 でも、調べてみると、先日「憲法の「空語」を充たすために」(かもがわ出版)というブックレットに近い本を読んだ前は、去年の1月の「街場の憂国論」、その前が、2013年10月の「内田樹による内田樹(140B)で、そんなに追っかけては買っていないということか。

 でも、こんなに続けざまに出版されているということは、それだけ読まれている、それだけ求められているということにほかならない。

 この本は、いつものように、私として同意できること、学ぶべきものに満ちている、のではありつつ、どこか「何か異物が喉につかえたような気がする」(まえがき)のであることも否めない。

 それは、「僕たちが今いるのは、二つの戦争つまり「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」にはさまれた戦争間期ではないか。これが僕の偽らざる実感です」(まえがき)という彼の言葉に関わるところであるのは確かなところだ。「異物がつかえたような」というのは、彼が「素材を十分に消化しないまま本にしてしまったから」とかではなくて、説明の不足が原因だというのでもなくて、彼の理路は十分にというかそれなりに把握できたとしたうえで、じゃあ、ぼくらはこれからどうすればいいのか、というところが、いまいち不分明だ、というところにある、のだという気がする。

 とにもかくにも、その行論を読み返してみる。

 

 「「日本は戦争でいったんは灰燼に帰したけれど、その後奇跡の経済成長によって見事に復活しました」という話を僕は信じません。日本人はあの戦争によって取り返しのつかないくらい多くのものを失った。それはもう少しの知恵と気づかいがあれば守れたものでした。それを日本人は惜しげもなく投げ捨ててしまった。僕はそれが口惜しい。」(19ページ)

 

 「今の日本は主権国家ではありません。アメリカの従属国です。この違いに日本人はあまりに無自覚であると思います。」(42ページ)

 

 日本は、あの戦争で、アメリカに徹底的に負けてしまった。ほとんどすべてを失ってしまったのだと。

 それが、現在に至るまで、日本という国を規定してしまっている。日本は、以降、病気にかかってしまったままだと言う。

 で、どうすればいいのか?

 実は、この本のどこを読んでも、その明確な解答は出てこない。内田樹は、この問いに明確な回答を行っていない。

 ひとつの理路としては、日本は戦争に負けた、そして、今の憲法を押し付けられた、だから、その憲法を廃棄して自主憲法を制定しなければならない、そうでなければ、日本は主権国家として成り立っていかない、というふうにもなりえるところだ。いわゆる改憲派の主張と同じ。

 そうだな。それはその通りなのかもしれない。いわゆる改憲派ではないとしても、もう一度、憲法を制定し直すということは確かに必要なのかもしれない。

 だれかが、リベラルな改憲運動を起こすべきと主張していたが、それは確かにありなのかもしれない。国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義という三原則を厳守したうえで、自衛隊の存在を明確に規定したり、地方分権についてのボリュームを増やしたりするような改憲、みたいな。

 ちなみに、国民主権や基本的人権すら否定するような改憲論者も、世の中にはいるのだろうが、じつは、そういうのは、ごく少数なのではないだろうか?このあたりで、幅広い層の国民の結集は可能なのではないだろうか?

 などというのは、私の考えだが、内田師は、この本の中では、「どうすればいいのか」、までは、何も語っていない。

 そこらが、「何か異物が喉につかえたような気がする」ことの正体なのではないだろうか?

 でも、もちろん、どうすればいいのか考えるための材料は、提示してくれる。

 日本が、全体として株式会社化しているという話。

 経済の分野だけでなく、政治家も、責任は、有限にしか負わないと。

 

 「自民党のある政治家が、戦争をしたのは私たちでなく先行世代である。彼らの罪について私には謝る義務はないと言い放ったことがありました。この政治家はたぶん国民国家を「株式会社のようなもの」と思っていたのでしょう。株式会社なら、政策判断を誤っても、倒産すれば、それで終わりです。」(21ページ)

 

 株式会社は有限責任ですから、保有する株が無に帰するだけでそれ以上の責任は負わなくて済む。

 

 「でも国民国家は株式会社ではありません。…国民国家の過失については事実上の「無限責任」が問われる。」(22ページ)

 

 (このあたり、地場産業、地元中小企業という観点で見ると、一般的には銀行の融資を受ける際、必ず、社長個人の個人保証をつけなくてはならないみたいな話はあって、実は、社会全般に「有限責任」の概念が行きわたっているかというと、決してそんなことはないという話にはなるところである。弱いところには、メリットは行きわたらないのだ。地域社会の中での個人の信用ということは、決して無用になることはない。だから、新自由主義が、社会の隅々まで貫徹することなどない、ということのひとつのエヴィデンスにはなり得るのだろうと思う。そこに反転の一つの材料はありうる。しかし、現在、一種の無責任としての「有限責任」が幅を効かせているというのも確かなことだろう。)

 

 あと、憲法第九条が大切であり、安全保障上も有効であるという話。

 

 「改憲だ、秘密保護だ、海外派兵だというような平和ボケした政策に熱中できるのは、とりあえずはどこからも国境が侵犯されるおそれがないし、テロも起こりそうにないと毎日枕を高くして眠っていられるからです。「交戦権を放棄した」国に宣戦布告する国はありません。あっても、国連加盟国の中でそれを支持する国はありません。九条があるかぎり、日本に対して「こちらが先制攻撃をしなければ日本がわが国を侵略してくる蓋然性があった」という言いがかりをつけることのできる国はどこにもありません。あったとしても、日本は侵略国に対して、侵略当事国以外の全世界のモラルサポートを当てにできる。日本人はその恩恵に二世代、七十年間浴してきました。そしてそれがどれほど「ありがたい」ことか忘れてしまった。」(242ページ)

 

  「日本でテロのリスクがきわめて低いのは、日本が海外の紛争に軍事介入してこなかったからです。そして、軍事介入しなかったのは、日本国憲法第九条がそれを禁止していたからです。(東京オリンピックの)招致成功の最大の理由は「憲法九条」の効果です…(中略)…大恩ある日本国憲法に対するこの「忘恩」の態度に僕は我慢がならない。」(245ページ)

 

 それから、経済成長するには、国の安全を犠牲にする必要があるという話。

 

 「日本にはもう経済成長の余地がありません。それでも無理やり成長させる手立てがまったくないわけではない。それは「無償で手に入るもの」をすべて「有償化」することです。今ならただかただ同然で手に入るものを市場で商品として購入しなければならない事態にすれば、消費活動は活性化し、貨幣の運動は加速し、経済成長率は跳ね上がります。/それは経済成長率の高い世界の国々のリストを見ればわかります。」(248ページ)

 

 内戦で疲弊し、まだスーダンとの国境紛争が続いている国、南スーダンこそ「2013年の経済成長率世界一」なのだという。

 日本国民が良き生活を享受するためには、実は経済成長は不要であるということ。政府が掲げる経済成長の実現が、実はひとつも国民のためにはならないという大きな矛盾。

 

 「日本は世界でも例外的に豊かな国民資源に恵まれている。たとえば、森林資源、水源、大気、治安、医療、教育、ライフライン、交通網、通信網、そういうものが整備されているおかげで僕たちは無用の出費をせずに済んでいるわけです。/でも、経済成長のためには「安定したストックがある」ことはむしろ邪魔になる。」(249ページ)

 

 国民のためにならない施策ばかり掲げ続ける政府とは何者なのか?

 

 「政府は何もしてくれない、…(中略)…できるだけ最悪の事態については考えないようにしている。…(中略)…希望的観測は熱心にしていますが、これは大戦末期の大本営の思考法とほとんど同一です。リスク評価は最小化し、成功の確率は最大に見積もる。それによって机上の作戦では「皇軍大勝利」のまま歴史的敗北を喫した。その歴史的経験から現代日本の指導層は何ひとつ学習していません。」(277ページ)

 

 「あと五年十年先にこの本を読み返したときに「あの頃ウチダが書いていたことって、結局全部杞憂だったな。だって、今の日本はこんなに平和で、みんなこんなに幸福そうなんだから。どうだいこの本をひとつ『予測がめちゃめちゃ外れた、知性の不調の好個の事例』としてみんなで笑いものにしようじゃないか」というようなことをみなさんが言って大笑いしている風景をぜひ眼の黒いうちに見ておきたいというのが僕のささやかな願いであります。ほんとに。」(279ページ)

 

 と、まあこういうことなのだが、そうだな、この本は、最後に至るまで、じゃあ、こうすればいいのだ、ということがひとつも書いていない。こうあって欲しくないということをのみ書いている本だ。「何か異物が喉につかえたような気がする」と、内田師自ら書く由縁である。

 帯に「現代の窒息感を解放する全国民必読の快著」とあるが、これは看板に偽りありである。たぶん、確かに、窒息感の正体を見せる、というところまではしてくれている。で、垣間見た正体に対して、ではどう闘いを挑むか、そこまでは明示してくれていない。ヒントは与えてくれている。そこからは、自ら考えろ、と、投げ出されている。

 しかし、「現代の窒息感を解放する〈ためのヒントはたくさん与えてくれる〉全国民必読」の書であるとは言えると思う。あとは、われわれが考えなくてはならない。内田師もきっと考え続けてくれるだろう。

 ああ、書きづらかった。読み終えて、一週間以上かかってしまった。


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