ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

高橋源一郎 ぼくらの民主主義なんだぜ 朝日新書

2015-06-22 22:58:21 | エッセイ

 高橋源一郎は、現在、日本最高の小説家である。とわたしは思っている。もっとも読むべき作家である。手元に、「動物記」という小説と、「デビュー作を書くための超「小説」教室」というキッチュな書名の書物があるが、まずは、こちらを読み始めた。

 読む前は、一定程度まとまった形の高橋版「民主主義論」かと期待していたが、実は、朝日新聞の論壇時評のまとめであった。比較的短い文章で、論壇誌に発表された評論を中心にその都度その都度のさまざまな出来事について書かれたもの。2011年4月から15年3月まで、月一回、都合48回分。震災直後からということになる。

 朝日新聞とは何者か、ということについてひとこと書いておきたい誘惑にもかられるが、また別の機会にする。ただ、まあ、朝日新聞と言っても、一筋縄ではいかないものだとは言えるだろう。これは読売新聞も産経新聞も東京新聞も似たようなことであって。

 これは、ひとつひとつの文章が短いので、とても読みやすく、すいすいと読めてしまったし、それぞれ、考えさせられる良い文章であったことは間違いないが、ひとつ衝撃的で、とても感動した文章があった。

 それは「あるひとりの女性のことば」と題されている。2013年10月31日付で紙上に掲載されたもののようである。159ページである。

 

 「なぜか美しいと思い、体が震えた。」と、高橋は書きだす。

 まいったな。こう書き始めて、私も、あらためてこころが震えてしまう。

 

 「何年も前の国際児童図書の大会で、ある女性が基調講演を行った。わたしは、それを偶然読み、自分の中でなにかが強く揺り動かされるのを感じた。

 彼女は、自らの個人的な、戦争と疎開の不安な経験について、それから、時に子どもたちが感じなければならない「悲しみ」や「絶望」について語った。中でも、私の記憶に焼きついたのは、次のことばだった。

 「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても、国と国との関係においても」

 以来、わたしは、彼女の書くもの、彼女の語ることばを、探すようになった。」

 

 「彼女」とはだれか?

 

 「彼女とは、美智子皇后である。」

 

 皇后は、79度目の誕生日にあたって、五日市憲法草案について思いを吐露されたという。

 

 「近代日本の黎明期を生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いにふれ、深い感銘を覚えた」と書かれたあと「長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識」と続くくだりで、わたしはことばにならない思いを感じた。」

 

 「皇后は、「暮らしの手帖」の共同創刊者・大橋鎮子、現憲法制定に深くかかわったベアテ・ゴードン、岩波ホールの高野悦子といった人々の名をあげ、「私の少し前を歩いておられた方々を失い、改めてその御生涯と、生き抜かれた時代を思っています」と書かれた。」

 

 その後に続けて、沖縄の外間守善の名も上げ、平和への希求を語られる。

 

 まいったな。涙があふれそうだ。これは私の転向宣言なのだろうか?

 そうかもしれない。

 天皇陛下は、現憲法において、基本的人権をもたないことが明示されている唯一の存在である。明記はされていないが、そのご家族もまた、当然に相当制限されている。(もっとも、われわれ一般庶民も、社会の中で、現実に基本的人権が100%保障されているかと言えばそんなことはなくて、だからこそ、理念として理想として憲法で保障すると宣言しなければならないのであり、だから、非常に大ざっぱに言ってしまえば、天皇陛下やそのご家族とわれわれ一般庶民の差は程度問題でもあるとも言えるのだが、それはまた別の議論である。)

 そういうなかで、ここまで発言されている。(皇后陛下のみでなく、天皇陛下の最近のことにふれての挨拶も実は同様であると思う。)

 現憲法下での象徴天皇であることを肯定されている、それを限界の中最大限眼一杯のことばで表現されている。

 私は、ここで、天皇主義者に転向したと言っても構わない気がしている。

 ただし、絶対主義的天皇主義ではない。

 象徴天皇主義である。現憲法第一章を肯定する象徴天皇主義者。

 私は最近、国民国家主義を標榜している。何もつかない「国家主義」ではない。「国民国家主義」である。

 「国民国家主義」かつ「象徴天皇主義」。結構いいのではないだろうか。

 イギリスは、慣習による不文憲法で、立憲君主制である。もちろん、民主主義の祖国である。そんな感じで良いのではないだろうか。

 そんなあたりに私にとっての「ぼくらの民主主義」があるような気がしてきた。私もずいぶん、保守的になったものである。

 高橋氏は、「民主主義」を探して、と題されたあとがきに、こう書いている。

 

 「「民主主義」とは、たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒にやっていくためのシステムのことだ。…(中略)…ぼくたちはひとりで生きていくことはできない。でも、他人と生きるのはとても難しい。だから、「民主主義」はいつも困難で、いつも危険と隣り合わせなものだ。誰でも使える、誰にでもわかる、「民主主義」なんてものは存在しない。/ぼくたちは、ぼくたちの「民主主義」を自分で作らなきゃならない。」(254ページ)

 

 そういうことだと思う。


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