ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中勘助「銀の匙」角川文庫

2013-10-28 23:33:13 | エッセイ

 中勘助と言えば、「銀の匙」ということになるのだろうが、若い頃から知っていたわけではない。気仙沼演劇塾うを座が「鳥の物語」を上演したのは、2002年だから、もう11年も前のことになる。壤晴彦さんが、中勘助の「鳥の物語」を原案として、新作を書くとおっしゃって、文庫本を求めて読んでみた。中勘助という名前は、そのときはじめて聞いた。

 「鳥の物語」は、東西の昔話、神話に題材をとった美しい物語集であった。きらきらと輝く宝石が収められた宝石箱という趣きの。

 舞台は、その中から「カササギの話」と「鵜の話」を取り上げた。原作の美しさもあいまって、哀愁にみちた美しい作品となった。うを座の歴史の中でも、ひとつの頂点をなす作品と言える。

 そのとき、壤さんから、中勘助といえば一般には「銀の匙」だけどね、とは伺っていた。自らの子ども時代を題材とした美しい小説だと。機会があれば読んで見たいものだとは思い続けていた。

 先日、妻が部屋の片づけをしていて、息子が古本屋から買い求めていた文庫本をひとつ見つけた。「銀の匙」であった。ああ、いま、読むべき時が来たのだと。

 読み始めて、ちょっと印象が違ったように感じた。読んでもいないのに、印象が違うと言うのも妙な話だが。

 この小説は、前篇、後編とあって、前篇は大正元年、後編は2年の創作ということだ。描いているのは、当時の小学校に入学する前後から、後編は17歳ころとのことで、中勘助は、明治18年生まれということだから、明治20年代の半ばから30年代の半ばまで。

 思ったよりも、古い時代の話だったということか。「御維新のまえには」というような描写も出てくる。神田の下町から、小石川の山の手へ引っ越す、その山の手は、士族、旧幕時代の武士の住まいと、元からの農家か混在する地域のようで、つまりは、当時は、郊外ということになるようだ。今から見ると、むしろまだ江戸時代であるようなまちの風情というべきだろうか。

 当時の風俗、遊び、まちの様子、学校の様子、家の中の様子も描かれる。特に作者が愛玩する小さな物たちは詳しく描写される。たとえば、引出の中に大切にしまいこまれた小さな銀で作られた匙。

 そして何よりも、近所の上品な女の子との関わり、後編では、友人の姉である若い人妻との淡い関わり。そう、すべてが淡く、上品で美しい。いまどきであれば、性的な描写のひとつもなければ小説にはならないと苦情を申し立てられるのではないかとも思う。ほんとうに描写の先の先にほのかに想像し得るとは言えるが、具体的なものは何もない。もちろん、女性との間にほとんど事件は起こらない。

 一方で、そこには、士族と平民との間の差別も垣間見える。中自身は、それを差別だとは明確に意識はしていないようだが。それもまた、その時代、ということなのだろう。

 「銀の匙」は、中勘助の愛したものたちが、あくまで美しく描かれる夢の世界。明確なストーリーがあるわけでなく、むしろ、身の回りのことをひとつひとつの章だてごとにスケッチしていくエッセイとも言いうるような小説。明治の日本がどういう世界であったのかを学ぶことができる一種の教科書、という言い方もできるのかもしれない。もちろん、堅苦しい教科書ということではない。あくまで、哀しく美しい。

 


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