ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

本の力

2014-04-05 15:00:08 | エッセイ

 今回の朝のドラマには、また泣かされている。

 このところの朝のドラマには、連続して泣かされている。

 「花子とアン」は、図書館のためのドラマだ。本というものの力が、ドラマの根底にある。

 現実ともうひとつの現実、もうひとつのリアリティ、そのふたつの力の相克がドラマの推進力になっている。

 もちろん、ドラマというもの自体が、もうひとつの現実そのものなのだが、その枠の中に、重ねて、現実ともうひとつの現実が存在している。

 相克、というようりは、むしろ、相乗効果。

 人間が生き延びていくことにおける本の力を描く。

 本があるからこそ、人間は生き延びていけるのだ。(少なくとも私は。)

 さて、貧しい農家の娘が、東京に出て、英米文学を学び、その紹介者となる。男であれば、末は博士は大臣かということだが、同じ構造である。翻訳家として名をなす。

 この個人の人生は、もちろん、明治以降の日本文明の進展にそのまま重なっている。

 現在の日本文明は、古来からの日本の歴史のうえだけに成り立っているのではない。西洋文明の蓄積も取り入れて、言ってみれば、その両方の足のうえに立って、そのふたつの文明の混淆として成り立っている。

 さらに、花子の翻訳した「赤毛のアン」を読んで育った女性たちが、引き続きその後の混淆としての日本文明を進展させてきたわけだ。「赤毛のアン」から生きる力を与えられた女の子たちが、大人に成長し、社会に貢献し、子供を育てる。

 本を読んだ人間が、今の日本を作ってきた、そして、これからも作って行く。

 欧米文学の翻訳者の人生がドラマになるということは、欧米の文明を取り入れて進展してきた明治以降の日本文明の在り様を描くドラマになるということであり、それが、広く共感を呼び感動を与えるドラマになるということである。翻訳文学が日本人の血肉になっているということ。

 これは、私などが改めて言うまでもないことではあろう。

 さて、翻訳であろうが、オリジナルであろうが、本は本である。

 震災以降の日本の再生に、本の力が、本の力こそが必要なのであるということ、それがこのドラマのメッセージである。

 「あまちゃん」は、震災以降の被災地の復興に、エンタティメントの力、それに、方言など地域自体の持っている力の重要性を描いた。「ごちそうさん」は、戦後の復興に、何といっても食物の力、そして、もうひとつは建築の力が重要であると描いた。広く言えば衣食住。そして、今回は、本の力である。

 NHKの朝の連ドラは、恐らく、毎回、その時代時代の日本文明のありようを描くという役割を負っている。その中で、このところは、再生、復興がテーマである。(ここでいう文明とは、文化をも包み込む広い意味であることは言うまでもない。)

 「花子とアン」は、現在の状況において、本の力を示す、ということは、図書館の果たすべき役割というものに力を与えてくれる、図書館に関わる者に勇気を与えてくれるドラマである。有難いことである。


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