ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

一関市東山町で谷川俊太郎を観た、聴いた

2017-06-04 23:39:39 | エッセイ

 一関市東山町に、谷川俊太郎を聴きに行った。正確にいえば、谷川俊太郎氏と谷川賢作氏の詩と音楽と対話を聴きに行った。もっと正確に言うと、「宮沢賢治詩碑「まずもろともに」建立70年記念事業―賢治とともに詩と音楽の世界へ」というイベントに足を運んだ。

 場所は、岩手県一関市東山町の東山地域交流センター(図書館を含む複合施設)。そのメイン・ゲストが、谷川俊太郎であり、健作であったということ。

 谷川俊太郎の父、谷川徹三は、法政大学総長を務めた哲学者であるが、宮沢賢治の最初の発見者のひとり(俊太郎氏によれば、最初の発見者である詩人・草野新平の仲間で、ほぼ同時に見出したという。)であり、世に広く宮沢賢治を知らしめた紹介者であることは周知のことだが、この東山町の詩碑については、文言の選考、揮毫まで担った中心人物であるという。

 徹三氏が選んだ言葉は、賢治の『農民芸術論綱要』から「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という一節。

 まだ子供であった俊太郎氏の記憶によれば、父徹三は、この言葉を何度も紙に書き練習していたという。

 徹三氏が、賢治の紹介者であったことから、家には賢治の著書は、詩集、童話と揃っており、俊太郎氏は、特に童話に深く親しんでおられた。

 記憶の中に、この詩碑のための一節が何枚も書かれ、部屋に広げてある様子が鮮明に残っていると。

 俊太郎氏のデビュー作は、詩集『二十億光年の孤独』である。あの清澄で冷徹ですらあるような世界、というよりも端的に広大な、星の瞬く宇宙空間は、宮沢賢治のたとえば『銀河鉄道の夜』にそっくりであった。もちろん、全く違うのだが、どこか全く同じと言ってしまいたくなるような、というか。若いころは、谷川徹三と宮沢賢治の関係など全く知らなかったわけだが、どこかで全く同じ世界、と感じ取ってはいたように思う。

 今日、お話をうかがいながら、その後、知識としては知っていたことが、改めて、ほんとうのこと、として得心が行った、というか、何ごとか理解できたように思えた。

 

 詩集のタイトルとなった詩、「二十億光年の孤独」を、改めて読んでみる。

 

 

人類は小さな球の上で

眠り起きそして働き

ときどき火星に仲間を欲しがったりする

 

火星人は小さな球の上で

何をしているか 僕は知らない

(或いはネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする

それはまったくたしかなことだ

 

万有引力とは

ひき合う孤独の力である

 

宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う

 

宇宙はどんどん膨らんでゆく

それ故みんなは不安である

 

二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした

(全文 ここでは、國文学1995年11月号(学燈社)から引用)

 

 僕たちに後に続くものとっては、宮沢賢治が神話であるのとまったく同等に、神話であるような詩だ。優れた詩だなどということすら語る必要はない。いや、むしろ資格がない、というべきだ。

 これは、偶然似ている、のではなかったのだ。

 谷川俊太郎は、谷川徹三をあいだにはさんで、宮沢賢治をダイレクトに受け取った、いわば直系の孫だったのだ。

 やはり、足を運べば得るものは大きい。

 今日朗読されたどの詩も、谷川俊太郎の詩であることは言うまでもないことだが、この「二十億光年の孤独」と、続けて「ネロ」、なんだろう、たとえば「幼いころ、夏という季節は…」みたいな前ふりの言葉を少し発した瞬間に、あ、これは「ネロ」に違いない、と分かって、こみあげてくるものを押さえることができずに、鼻を鳴らした瞬間、脇にいた妻から、腕を押さえられ、なんとか押さえられたとは思うが、こういうのは、予感した途端に的中して行くというその瞬間がいちばん感動するときだ、とかいうふうに思う。

 妻には、まわりにお客さんがいるのだから、ひとり先走って泣いたり笑ったり声をあげて、まわりの邪魔をするな、と、常々注意されているのだが。

 「ネロ」は、愛された小さな犬にと副題が付いている。

 

 

ネロ

もうじき又夏がやってくる

 

 

と始まるが、ここでは以下は省略する。いまでも国語の教科書には載っているだろうか。探せばすぐに、どこでも読める詩だ。

 で、最後は「鉄腕アトム」だった。

 まんが家手塚治虫の代表作「鉄腕アトム」の主題歌が、谷川俊太郎の作詞だとは、周知の事実ではあるのだが、とはいっても知らないひとも多い。

 賢作氏の前衛的なピアノがポロロンと鳴って、賢作氏が紹介する。すると、なんと、俊太郎氏が自分で歌うという。(2番は、賢作氏が歌った。)

 谷川俊太郎の詩としては、代表作にはあげられないかもしれないが、これは、谷川俊太郎の言葉による全作品の中、という枠組みでは、社会的に最も影響力の大きかった作品ということにはなるのかもしれない。特に2011年以降、なおさら。

 私としては、このエンディングは、大きな衝撃であった。もちろん、肯定的な意味で、である。

 この作品の戦後日本社会における存在の仕方。問題としての巨大さ、というか。谷川俊太郎が、肉声でこの歌を歌うということの意味。

 その場に、生で立ち会うことができた。

 これは、巨大な幸福、ということではあるのかもしれない。私にとって。


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