このところずっと、つらつらと夢想しているのは、次のようなことだ。これが理想論であることは論をまたないと思う。(現実的でなく実現不可能という意味での理想論ではなく、字義通り理想とすべき状態という意味での理想論。)
あらゆる仕事は世の中に貢献するためにある。(結果として、ためにならない仕事はありうるが、それは、取り進め方の失敗によるものであって、当初の目的としては、世の中のためになることにほかならなかったはず。)
あらゆる働いている個人は、収入を得るが、それは、社会に貢献する仕事をしている結果としての報酬である。
あらゆる企業は、法人企業であると、個人企業であるとを問わず、社会に必要なモノやサービスを提供するために存在する。売り上げは、その供給に対する正当な対価である。
企業の利潤は、目的ではない。社会に対する供給が、ただしく行われていることの証しである。効率よく、正当にマネージメントされていることの証しである。利潤は、良きマネージメントの証しであって、つまり、結果ではあっても、目的ではない。
投資はその事業の社会的な意義を認めたうえで、その立ち上げ、存続に資するためのみに行う。投資家は、起業家を信頼し、その起こす事業の社会的な意義を評価したうえで、設立と存続を支援するために投資を行う。それは、高率のリターンを目的とするものではない。ただし、正当なリターンを排除するものではない。
お金がお金を生むための、お金を増殖させるためのみの投資はありえない。金融工学などというものは存立しえない。
純粋にお金を増殖させようとする投資は、法的に禁止することも考慮されるべきである。金融工学を実際に活用することは法的に禁止することも考慮すべきである。
キリスト教やイズラム教が利子を禁じたことを見習って、それを、修正したうえで、過大な利子や、高率の配当を禁止する法律というものは検討されて良い。
株式の売買は、単純に売買の差益を目的とするものは禁止すべきである。その会社に投資する、その会社の事業を評価して、その進展や存続に資することを目的とする限りにおいて許されるとするべきである。
会社の維持とか、会社内の人事マネージメントも、弱肉強食ではなく、共に支え、共に喰らうことができる共存の体制が求められる。
ぎすぎすした人間関係ではなく、あたたかな支え合う人間関係。進歩向上する競争も、ぎすぎすした生存競争ではなく、さわやかなスポーツマンシップにのっとった競技でありたい。
こういう社会、こういう経済というものは成り立ちえないものだろうか?こういう経済のためのルール作りはできないものだろうか?そのための経済学は成り立ちえないものだろうか?
お金、貨幣というものの本性として、自己増殖しようとする、利潤を追い求める、そういう本性を認識したうえで、それに、なんらかの形でブレーキをかける、そういう仕組みを考えられないか?法律で制御することが考えられないか?
言ってみれば、道徳的な資本主義のようなもの。法治資本主義みたいなこと。
これは、途方もない、現実からかけ離れた夢想に過ぎないのだろうか?
貨幣の信用は、国家が与えているものだとすれば、貨幣のあまりに自由な動きのコントロールを国家がしようとすることは、むしろ、当然のことではないか?不自由な資本主義を追求すべきではないのか?
ま、そんなようなこと。
あらゆる仕事は世の中に貢献するためにある。(結果として、ためにならない仕事はありうるが、それは、取り進め方の失敗によるものであって、当初の目的としては、世の中のためになることにほかならなかったはず。)
あらゆる働いている個人は、収入を得るが、それは、社会に貢献する仕事をしている結果としての報酬である。
あらゆる企業は、法人企業であると、個人企業であるとを問わず、社会に必要なモノやサービスを提供するために存在する。売り上げは、その供給に対する正当な対価である。
企業の利潤は、目的ではない。社会に対する供給が、ただしく行われていることの証しである。効率よく、正当にマネージメントされていることの証しである。利潤は、良きマネージメントの証しであって、つまり、結果ではあっても、目的ではない。
投資はその事業の社会的な意義を認めたうえで、その立ち上げ、存続に資するためのみに行う。投資家は、起業家を信頼し、その起こす事業の社会的な意義を評価したうえで、設立と存続を支援するために投資を行う。それは、高率のリターンを目的とするものではない。ただし、正当なリターンを排除するものではない。
お金がお金を生むための、お金を増殖させるためのみの投資はありえない。金融工学などというものは存立しえない。
純粋にお金を増殖させようとする投資は、法的に禁止することも考慮されるべきである。金融工学を実際に活用することは法的に禁止することも考慮すべきである。
キリスト教やイズラム教が利子を禁じたことを見習って、それを、修正したうえで、過大な利子や、高率の配当を禁止する法律というものは検討されて良い。
株式の売買は、単純に売買の差益を目的とするものは禁止すべきである。その会社に投資する、その会社の事業を評価して、その進展や存続に資することを目的とする限りにおいて許されるとするべきである。
会社の維持とか、会社内の人事マネージメントも、弱肉強食ではなく、共に支え、共に喰らうことができる共存の体制が求められる。
ぎすぎすした人間関係ではなく、あたたかな支え合う人間関係。進歩向上する競争も、ぎすぎすした生存競争ではなく、さわやかなスポーツマンシップにのっとった競技でありたい。
こういう社会、こういう経済というものは成り立ちえないものだろうか?こういう経済のためのルール作りはできないものだろうか?そのための経済学は成り立ちえないものだろうか?
お金、貨幣というものの本性として、自己増殖しようとする、利潤を追い求める、そういう本性を認識したうえで、それに、なんらかの形でブレーキをかける、そういう仕組みを考えられないか?法律で制御することが考えられないか?
言ってみれば、道徳的な資本主義のようなもの。法治資本主義みたいなこと。
これは、途方もない、現実からかけ離れた夢想に過ぎないのだろうか?
貨幣の信用は、国家が与えているものだとすれば、貨幣のあまりに自由な動きのコントロールを国家がしようとすることは、むしろ、当然のことではないか?不自由な資本主義を追求すべきではないのか?
ま、そんなようなこと。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます