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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

滝川一廣 子どものための精神医学 医学書院

2019-09-01 09:27:07 | エッセイ

 滝川一廣は、精神科医で、大学教授、児童福祉、障害児教育、臨床心理学にも関わった経歴を持つ。

 冒頭にこういうことが書いてある。

 

「(この本は)「児童精神医学」の網羅的な教科書や啓蒙的な解説書をめざす本ではない。日々の暮らしのなかで子どもたちと直接かかわる人たち――教員、保育士、看護師、心理士などをはじめ、さまざまな子どもにかかわる領域にある人びと、そしてもちろん親たち――にとって、子どものこころの病気や失調、障害を理解したりケアしたりするために役立つことをめざす本である。

 子どもの診療にあずかる医師にも役にたてばと願っている。」(12ページ)

 

 精神医学の本であることに間違いはないが、子どもが育つということ全般に関わる本である。病気だったり障害だったりとは分類されない、いわゆるふつうの子どもを含めた全体、それが、この本の座標軸のどこかには位置づけられる。

 いわゆる「発達障害」に焦点があてられており、精神医学と言ったときにイメージされやすい「うつ病」や「統合失調症」については記述が少ないが、子どもとは、大人に向けて発達途上の存在であるという特性から、絞り込まれたものということである。

 子どもの発達そのものを捉えなおし、発達障害、不登校、ひきこもり、いじめと論が進められる。

 統合失調症などの分野については、中井久夫の名著『看護のための精神医学』(山口直彦との共著)を参照するよう促されている。

 というのも、あとがきを読むと、この本がそもそも、『看護のための精神医学』の児童精神医学版として企画されたものなのだという。

 

「中井先生からも「あの本には子どものことが書いていない。そこを君に」と伝えられた。/同書は「看護のため」と冠されているが、看護師ばかりでなく多方面にひろく読者を得て版を重ねてきた…」(460ページ)

 

 特に統合失調症は、中井の本にすぐれた説明があるのだと。

 さて、「はじめに」に戻ると、「子ども」とはどういうものかについて、簡潔に項目を挙げている。

 

「(1)子どもとは育ちつつあるもの、成長途上の存在である。

 (2)子どもとは社会のなかを生きている存在である。

 (3)子どもの育ちもケアも、マニュアルどおりにはいかない。」(13ページ)

 

 これは、こと精神医学に限定されない、子どもに関わるすべてのひとに共有されるべき基本的なことがらである。

 

「人生とは一人ひとりに個別的であり、しかも一回かぎりのものである。子育てとは、そうしたとりかえのきかぬ人生でのかかわりである。こうすればかならずOKという模範解答はない。」(13ページ)

 

 マニュアル通りの簡単な正解などはないのである。その都度その都度の試行錯誤しかない。かといって、なんら指針がないというわけでもない。この書物自体が、寄る辺ない航海の羅針盤たろうとする試みである。模範解答はない、という中で、最も信頼し得る羅針盤たりえていると言っていいに違いない。

 

 第1部第1章は「〈こころ〉をどうとらえるか」である。

 

「〈こころ〉と何か。この問いに哲学者が哲学的に答えようとすれば、とてもややこしい問題となる。科学者が科学的に答えようとすれば、なかなか、扱いきれない問題となる。いずれにせよ、やっかいである。」(15ページ)

 

 ここらあたりの行論は哲学的であり、私などには馴染みのあるというか、そうそうその通りと、膝を打ちたくなるところである。

 

「哲学と科学とはもともとから別だったわけでなく、ルーツは同じで、古代ギリシャではphilosophia、すなわち「知を愛し求めること」というひとつのことがらだった。それが、近代に入って、知の対象が自分たちの内(主体)に向かうものが哲学へと、自分たちの外(客体)に向かうものが自然科学と別れてきたと考えられる。前者は倫理につながり、後者は技術につながる。もちろん、そんなふうに単純に「内(主体)」と「外(客体)」に分けられるのか、という問題も出てくるけれども。」(15ページ)

 

 ものの本を読むと、科学と技術とは、来歴が違い、一方は哲学から派生した学問であり、一方は職人の技であってどうこうという話もあるようだが、ここは、そんな細かい議論は問題ではない。哲学の内で、実験を伴い、実証可能で、手わざにも近しいところが科学と分化したもので、まさしく技術につながるわけである。

 いずれ、精神医学は〈こころ〉という一筋縄ではいかないものを扱うものである。そうそう簡単に正解に行きつくわけではない。

 

 こころの発達について、問題とされているのは、一方は「知的障害」であり、もう一方に「自閉症スペクトラム」と、大きく二つのグループが挙げられている。この本では、二つの観点から座標軸を設定して考えてみることとなる。

 「認識(理解)」の発達の歩みと「関係(社会性)」の発達の歩み、人名でいえば、「ピアジェ」と「フロイト」。

 

「代表的な発達障害が「知的障害(精神遅滞)のグループ」と「自閉症スペクトラムのグループ」に大きく分かれるのはなぜか。発達理論はたくさんあるとはいえ、基本的にはピアジェの発達理論とフロイトの発達理論というふたつの古典に代表させることができるのはなぜか。」(72ページ)

 

「ピアジェの発達理論は…(中略)…基本的に認識(理解)の発達の歩みをたどったもの。フロイトのそれは…(中略)…基本的に関係(社会性)の発達の歩みをたどったもの」(72ページ)

 

 精神の発達とは、ピアジェの認識の発達をY軸、フロイトの関係性の発達をⅩ軸においた座標軸の原点から、右上の方向へ成長していく図で表わされる。いわゆるふつうの発達、定型発達とは、YとX、知識と社会性とがバランスよく、ちょうど真ん中、45度の角度で右上に進んでいくものと表される。

 ちなみにいわゆる「知能テスト」は、知識の発達を測るもので、Y軸方向の数値を表すものとなる。

 (ところで、最近、NHKテレビの特集で「ギフテッド」と呼ばれる、特別の才能に恵まれた人びとのことが紹介されていたが、彼らはここでいう「自閉症スペクトラムのグループ」に、ほぼ含まれることになる。知識の発達が傑出しすぎて、人間関係の発達がふつうでも、Ⅹ軸とY軸のバランスを欠いてしまうという事態もあるのだとか。)

 

「ピアジェが知性の合理性・論理性の獲得過程を追ったのに対して、フロイトは人間のこころの非合理性を追った。ピアジェとは逆にフロイトは、人間の本源ないし精神の本源を非理性的なもの、非合理性に求めたからである。」(85ページ)

 

 合理と非合理。

 デカルトとパスカル、西洋と東洋、和魂洋才、このあたりの問題設定は、私には非常になじみ深いものである。(いろいろ違いは大きいので簡単に一緒くたにするのは間違いだが。)

 

 で、フロイトであるが、フロイトといえば「小児性愛」、人間を性的な存在と語り、「唯〈性〉論」みたいなもので、必ずしも評判よろしくないところがある。人間、性的な妄想ばかりで生きているわけではないはずだと、批判されたりする。

 この本では、フロイトについて、「愛撫的かかわりへの欲求」という小見出しのもとに、下記のように語られる。

 

「フロイトは性倒錯を「かたより」や「病理性」とはとらえず、人間の〈性〉のあり方は本来そこからスタートするのだと考えた。つまり、人間の性愛はあらかじめ一義的に生殖行動に結びついているわけではない、と。定型発達としてはその方向へ向かって開花していくけれども、はじめからそうあるのではなく、またきっとそうなるともかぎらない。人間の性愛は、最初、乳幼児が養育者との愛撫的なかかわりを求める心身未分化な深い欲求としてはじまる。

 この深い欲求をフロイトは『小児性愛infantile sexualitit』と名づけて、彼の発達論の鍵概念とした。この言葉は『小児性欲』とも訳されるけれど、しばしば誤解されるように成人が一般に持つ「性欲」(生殖行為への衝迫、俗にいう色欲)を乳幼児がすでに抱いているという意味ではまったくない。そのような色欲性をはらまぬ性愛で、フロイトはこれを古代ギリシャ哲学者のプラトンのいう「エロス」に近いものだと述べている。(いわゆるプラトニック・ラブ)。」(86ページ)

 

 ということで、フロイトはいわゆる色欲という意味での性的な衝動にのみ固執したわけではないのだと、誤解を解こうとしている。

 ただし、色欲を全く含まないということでないのはもちろんのことで、色欲が、人間存在のとても深いところまで規定する根源的な欲求であることに間違いはない。

 とはいっても、「小児性愛」という言葉の使いづらさということはあるわけで、他の言い方が模索されてきた。

 「アタッチメントとは子からの「なつき」」という小見出しで、下記のようなことが語られる。

 

「鳥類や哺乳類など、自力で身を守れない時期をもつ動物の仔は、親に接近することで安全を得るという行動パターンを生まれつき備えている。これは生物的にプログラムされた行動で、動物行動学では「アタッチメント」と名づけている。「くっつき」という意味である。カルガモのヒナたちが親鳥の後に列を作ってくっつき歩いているが、アタッチメントの好例である。

 ひとの赤ちゃんにおいてもアタッチメントと呼べる行動がみてとれる。それが精神発達に果たす役割を強調したのが、英国の精神医学者ボウルビィと、その共同研究者エインワースだった。学術用語としては『愛着』と訳されるが、日常語の『なつき』が本来の含意にぴったりの言葉だろう。

 …(中略)…フロイトが『小児性愛』と呼んだものと重なっているが、この用語が与えるセクシュアルなイメージを避けて、…とらえ直したと言える。」(116ページ)

 

 なるほど、というところである。

 

 後半第4部「社会に出てゆく難しさ」のなかで、いじめについて考察されている。

 

「中学生・高校生の生活と意識調査2012」(NHK)では、…「C.友だちがいじめられているのを見聞きしたことがある」と答えた中学生181名、高校生96名に対して「どうしましたか」と問うている。」(425ページ)

 

 「3何もしなかった」が48.4%。「1いじめている人を注意した」が15.5%、「2いじめられているひとを助けたり励ましたりした」が32.9%、「1」と「2」を併せて、48.4%となるという。

 「何もしなかった」が半数だが、何らかのアクションをとった子どもも同数いたということになる。

 

「この「1」と「2」は子どもたちの関係世界の内側で子どもたち自身によってなされる努力である。

おとなが外から介入する「いじめ対策」よりも前に、「1」「2」のような子どもたちの内発的な力に目を向けることがだいじかもしれない。」(426ページ)

 

 いじめが「困難ケースになる3つの条件」として、下記の項目を挙げている。

 

「①学級崩壊など高い波風に全体が揺れ動いている状況で起きている場合。

 ⇒困難にさらされている学校や教員への社会的バックアップの姿勢がたいせつ。

 ②いじめられる側の子どもがなんらかの負荷要因(たとえば発達障害、親子関係不調などをもっている場合。

 ⇒その負荷要因に対する支援が組み合わされねばならない。

 ③起きている現象を単純な「被害VS.加害」の対立図式に押し込めて対処がはかられようとしたり、そのような対処が強いられた場合。

 →「いじめ」に対する世論の怒りや正義感がそれを強いてしまうことがある。」(429ページ)

 

 いじめの対策は、犯罪捜査ではない。犯人探しをして、厳罰に処することが目的ではない。単純明快に白黒の決着を付けることではない。

 

「真相よりも安心を

 子どもが親に語る内容と、学校で教員が見たり他児から聴き取った内容とはしばしばずれている。微妙な対人心理の綾や半無意識的な集団心理のなかで変転しつつ働く玉虫色を帯びた現象のためである。めいめいの体験のあり方、見え方、感じ方にちがいが生じる。そうした「藪の中」では、だれの話が正しいのか、どれが真相なのかの追求にとらわれ過ぎると出口を失う。だいじなのは究明や白黒をつけることよりも、わが子が安心を得て元気に過ごせるようになることである。子どもが願うのもまさしくそれであり、それが目標であることを忘れないようにする。」(430ページ)

 

 親が、家庭が、いじめを受けた子どもの、安心して過ごせるベースキャンプになることが重要であるという。これは、未来に希望が持てるということにほかならないだろう。

 ところで、8月26日(月)に、斎藤環氏(@pentaxxx)がツイッターで、下記のように呟いておられる。

 

「いじめに対してこういう腐れ指導をするな。加害者と被害者を平等に扱うな。必要なのは ①加害者の謝罪 ②加害者の処罰 ③被害者の納得 が最低ラインだ。「指導」は一切不要。加害者への事情への配慮なんて高級なことは百年早いわ。」

 

 これは、NHKの報道で、昨年の、仙台でのいじめによる母子心中事件で、学校の担任が、被害側と加害側に「なかなおりの握手」をさせて、一件落着とさせた、被害側がなんら理解も納得もしていないにかかわらず、まったく形式的に握手させたということが報じられたことについてのコメントである。

(NHK NEWS WEB

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190826/k10012048901000.html)

 

 これは、この本で、滝川氏が述べることと、一見相反するようにも見える。どうだろうか。

 私自身は、齋藤氏の言うことは全く正しいと思うし、もちろん、滝川氏の言っていることも全く正しいと思う。どちらも正しいと思う。

 滝川氏の言う「単純な「被害VS.加害」の対立図式に押し込めて対処がはかられようとしたり、そのような対処が強いられた場合」というのは、決して「加害側への免罪符」なのではないはずだ。安心できるベースキャンプの構築がまったくなされないまま、安易に手打ちされてしまった際の、被害側の絶望はいかなるものだろうか?

 ただ、いじめた側へのケア、それは単に罰することでもなく、安易に赦すということでもなく、自分のしたことの意味を十分に理解する方向への努力だったり、反省、謝罪を含めた意識・行動、さらには環境の変容までを含めた対処、ということになるのだろうが、そういうケアもまた必要なはずである。

 このところは、学校だったり、児相だったり、困難な試行錯誤を続けていくほかないのだろうと思うのみである。

 私自身が教師であったら、私はどんな行動をとるのだろうか?

 そういう際に、この書物、齋藤環氏の著作、また、このところ読んだ中井久夫氏の著作など、参照すべき指針はある、ということになる。孤立無援ではない、はずだ。もちろん、書物のみに限らない、人間の関係のなかで。(とは言っても、難易度は高い…)


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