ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

長尾真 情報学は哲学の最前線 LRG第27号2019年春号 

2019-09-10 21:41:20 | エッセイ

 ライブラリー・リソース・ガイド第27号の特集は、情報学者長尾真(元国立公開図書館長、京大総長)の論考「情報学は哲学の最前線」を中心に据える。

 

 今号の責任編集にあたる李明喜は、特集の「はじめに」で、以下のように書く。

 

「長尾氏は「情報学は哲学の最前線」を書くことによって、哲学へ回帰したわけではなく、ずっと哲学の最前線=情報学の最前線で思考し、創造し続けてきた。熱狂が続く人工知能周辺に向けて「最前線はそこではないよ」というメッセージを送っているのかもしれない。」(8ページ)

 

 ところで、哲学とは何か、情報学とは何か。

 ここで、私などが、これこれこういうものであると独りよがりに考えてここに記してもあまり意味のあることにはならない。

 しかし、そうだな。

 大雑把に言って、哲学とは、人間がなにごとか筋道を立てて考える営みのことである、と言えば間違ってはいないはずである。

 と言ってしまうと、人間というものがこの世にあらわれて以来、なにごとか筋道立てて考えようとすることは行ってきたはずであり、そのときから哲学は存在し始めたと言っていいはずである。

 もっと限定的に言えば、遠くギリシャ時代のソクラテス以降、下って17世紀フランスのデカルト以降と言ってもいいのかもしれないが、主にヨーロッパと称される地域において進展し、議論が積み重ねられ、多くの哲学書が書かれてきたその積み重ねのことを哲学というのだと言っても間違ってはいないはずである。

 一方、情報学というのは、情報についての学問であろう。情報とは何か、情報はどんな構造を有するのか、言葉とか記号とか存在とか認識とか論理とか、それらの関係ありそうな事柄のなかで情報はどんなふうに捉えられ語られるのか。

 ここのところは厳密に議論しようとすると大変にめんどくさいことになってしまうので、大幅に端折ってしまうが、よくよく考えると、これらの問いは、哲学の問いと別物ではありえない。

 つまり、そもそも情報学も哲学である、ということになってしまう。あるいは、情報という切り口から考え始める哲学の別名であるとすら言いたくなる。記号学とか現象学とかと同じように。

 しかし、情報学というのは、出自をたどると情報工学であり、情報という切り口で、実社会に役立つ技術を確立しようとする営みであるようだ。端的に言えば、コンピュータを使って、大量のデータを使って、演算処理をして何か仕事をしようとする試みから生まれてきた。

 コンピュータを使って何か世に役立つことを成し遂げたい、そういう筋道をきちんと考えようとする学、言い換えれば、ある特定の分科された分野においての哲学である。哲学から分科された学としての科学の一分野であることに間違いはない。

 とまあ、わたしなどが一般論を語ろうとしても、こんなふうに、当たり前すぎてなにも新たに語ったことにならない。たわごとにしかならない。

 しかし、長尾真氏が、いま、「情報学は哲学の最前線」と語ることは、大きな意味のある出来事であると、今回の特集は主張するのである。

 旧制高校の教養主義をノスタルジックに語る、そんな語り自体がすでに失われ、ノスタルジーと成り果てているのかもしれないが、世の学者、大学教員は、西洋哲学史については、一般教養レベルとして当然に踏まえている、人類の歴史、特にその中でも西洋哲学史からの流れの中で、自分の専門の学問分野が位置付けられていて、素直な発展であれ、否定を通しての新たな展開であれ、常に人類史の全体像のなかで捉え返されているもののはずだ、と私など門外漢はあこがれを抱きつつ思い込んでいるわけだが、どうなのだろうか?

 

 冒頭の「序 この書の意図」で、長尾氏は下記のように記す。

 

「第2次世界大戦を契機としてコンピュータが誕生した。これは計算をするだけでなく、人間の頭脳を模擬する力を持つ機械であるとされた。人間頭脳がやっていることをアルゴリズムの形に表現できればコンピュータの上に実現できるというわけである。」(10ページ)

 

 アルゴリズムという言葉は、コンピュータ関連ではよく出てくる言葉だが、ウィキペディアを見ると、「数学、コンピューティング、言語学、あるいは関連する分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したものを言う。算法と訳されることもある」と説明されている。

 何らかの問いに対する解答を得るために書く計算式であり、フローチャートの形で書き表されることが多いようだ。特にコンピュータの世界で、コンピュータに乗せて計算するために必須のツールである。

 

「一方、人間頭脳の働きについては古代ギリシャ時代からの関心事であり、哲学と称する分野で今日まで議論が続いてきた。その長い歴史の中で様々なことが考えられたが、残念ながら研究に使える道具として今日のコンピュータのようなものがなかったためか、全て思考の世界で議論が行われてきただけであった。したがって、そこでの概念、言葉による表現や議論は常に曖昧性を伴い、誤解もされてきた。…哲学の世界の進歩は遅々としたものだったと言えよう。

 しかしながら古代ギリシャから2500年以上にわたって多くの叡智が議論してきた内容は今日の情報学、人口知能研究でなされていることの参考になる。」(10ページ)

 

 コンピュータによるコンピュータのための学である情報学は、すべて計算式に還元して演算を行うものであるから、基本的に簡潔明瞭、明晰判明であり、正確である。一方哲学は、コンピュータを使ってこなかったので、曖昧さが付きまとい、誤解も多かったということになる。しかし、そうではあっても、いま現在、大いに参考になるのだ、という話の進み方のようである。

 私が考えるに、明晰判明で正確であることは、もちろん、よいことである。世の中に必要なことである。一方、曖昧なこと、厳密過ぎないことも、実はよいことであり、世の中に必要なことである。私自身が、哲学として学んでいることは、そういう両面を含みこんだものである。適度な曖昧さこそ創造の源泉である。

 厳密で正確なことだらけでは、息が詰まる、生きづらい。曖昧さがあることで、生きることが楽になり、創造性も生まれる。隙間がなく遊びのない緻密なだけのパズルは変形し得る余地が生まれない。

 また、演算の結果が正しく有用であるためには、演算を始める前の問いの立て方が妥当であることが必要である。誤った問いからは、基本的に誤った結果しか導かれないはずである。(突然変異的な偶然の生産性ということはありうるにしても。)

 問いの立て方が妥当かどうかについては、演算のしようがない。情報学自体からは、妥当性が導き出されないはずである。「古代ギリシャから2500年以上にわたって多くの叡智が議論してきた内容」を参照することが必要なゆえんである。(ただし、とりあえず、問いを立て、演算してみた結果から、問いの誤りを確認するとか、一応確からしいと推測することはできるし、こういうのが、実験の検証なのではある。)

 

 第1部は「西洋哲学の歴史と情報学」と題される。

 長尾氏の西洋哲学史の理解は、私の読む限り、ギリシャから現代にいたるまで、妥当なものと思える。

 その中で、ソシュール、ウィトゲンシュタインについての記述が、情報学と哲学というテーマにおいて、最も重要なポイントになっているだろう。

 

「ソシュールは言語についてその文字表現(単語名などのラベル)とそれが指す対象(あるいは概念や意味)とを初めて明確に区別した。…言葉の表現と対象の結びつきは必然的なものではないとした。つまり名前は恣意性を持つこと、そして言語の意味とは何かについても新しい考え方を示した。例えば周囲状況全体を入れて考えないと言語の意味は定まらない。もうひとつは言語の違いは差異によってもたらされるとした。」(35ページ)

 

 シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)である。意味されるものとは、端的に言葉の意味である。意味するものとは書き文字や口から出る音声のこと。長尾氏は、シニフィアン、シニフィエという哲学用語を使わないが、ここでは哲学専門の術語は使わないということなのだろうな。少々哲学をかじった人の間では流布している言葉ではあるのだが。

 

「ソシュールが明らかにしたことは言葉の意味は決して固定したものでなく、状況に応じて異なるということであり、言葉によって成り立っている哲学が確かな構築物であることに大きな疑問を投げかけることになった。」(36ページ)

 

 これは確かにそういうことだろう。

 われわれは、どこかに、言葉の真の意味ということが秘匿されてあって、深く探求していけば、真の意味にたどり着けると思い込んでいた。どこかの教会の秘密の扉の中に、とか、世界の中心の図書館の蔵書の中に、とか、天上のイデアとしてとか。深く学問を学んだ人や、聖書を読みこんだ神父様や、インドから持ち帰った経典を勉強した高僧が、言葉の真の意味にたどり着けるとか思い込んできた。

 確かに広く深く学んだ人は、それなりに、言葉の真実のようなもののごく近くまでたどり着ける。それはそのとおりである。

 しかし、言葉の真の意味とは、玉ねぎの皮のようなものである。近くまでは行けたにしても、決してたどり着くことはできないのである。つまり、芯はどこにも存在しないのだ。

 ウィトゲンシュタインは「言葉の意味とは、その言語の使用である」(36ページ)と語った。

 

「これはある言語を理解しているということは、その言語を自由に使えるということであるという主張である(今日の我々からすれば、この言葉はトートロジーであって言わずもがなではあるが、その持つ意味は深い)。」(36ページ)

 

 言葉の真の意味など知らなくて構わないのである。大体の意味と、大まかな文法を知って、他のひとと意思の疎通が出来さえすれば、これは、その言葉を知っているということになってしまうのである。言葉は、使用できればそれでいのである。

 言葉の真の意味にたどり着こうとするなどは、無駄な努力でしかない。

 言葉が使用できるようになるためには、多くの使用の現場に立ち会い、使用の例をデータとして蓄積していくほかない。そういう行動を通して、大まかな文法が身につき、言葉の意味も体得できるのである。

 言葉を語る人、すべてはこういう体験を積み重ねているのである、その体験の総和の結果として、言葉を使っているのである。

 こういうことは、実は、コンピュータにこそ、得意な方法であるに違いない。現在のコンピュータ、あるいは、そのネットワークは、英語、日本語、その他あらゆる言語について、そういう実例を膨大に蓄積している。ほとんど無限に記録は蓄積されている。

 

「ウィトゲンシュタインは…「人は語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と書いたのである。この考え方はその後の哲学に大きな影響を与えた。フレーゲやラッセルも言語こそ世界を記述するものであり、哲学の中心的課題であると認識するようになった。今日のコンピュータによる言語処理、知識表現に繋がってくるものである。」(36ページ)

 

 ひとは語り得るものしか語れない。人が語りうるものは語りうるものでしかない。このトートロジー。意味内容から言えば、確かに無意味な言明である。しかし、その意味するところは深い。(無意味なのに意味が深いという矛盾。アイロニー、というか、パラドクスというか。)

 ソシュールやウィトゲンシュタインは、コンピュータによる情報学に、大きな可能性を開いたということになるのだろう。

 

「筆者は1980年代に用例に基づく機械翻訳方式を提唱し、世界のあちこちで使われるようになったが、言語の文法というような曖昧なものでなくウィトゲンシュタインの言う言語の使用という具体的用例を用いてアナロジー的考え方に基づいて翻訳を行う方式であった。そして言葉の意味とはな何かを示すものは、その後のあらゆる用法を集め示すことであるとしたのである。」(37ページ)

 

 長尾氏が、最先端の情報学を追求する中で、哲学の必要性を見出したことは、とても重要なことである。実は、情報工学でもなく、情報科学でもなく、情報学と名付けた含意は、氏の哲学重視の表れであると言っていいのだろう。

 今回の特集は冒頭の論考に引き続き、岡本真氏によるインタビュー、長尾氏の弟子にあたる気鋭の学者、大向井一輝氏、清田陽司氏と李明喜氏の対話、それぞれの論考と、読み応えのある内容となっている。

 連載の司書名鑑は清田陽司氏を取り上げ、田中輝美氏の隠岐・島前、知夫里島図書館の紹介、猪谷千香氏の長野県立図書館の紹介、伊藤大貴氏の地方議員の問題提起といつもながら面白く刺激的である。また、元市議会議員の小田理恵子氏のマンガ「ここが変だよ地方行政」の新連載も始まり、これもまた楽しみとなった。

 さて、次は、鷲田清一の「想像のレッスン」を読んでいる。現時点で語るべき哲学者は、やはり、鷲田清一である。長尾氏と鷲田氏は、直接の接点はあったのだろうか?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿