いとうせいこうとは何者だっただろうか?
テレビタレント、だったな、まずは。面白いような、面白くないような、妙なたたずまい。「すっトボケたような」表情、すっとまっすぐ立った立ち姿。しかし、最近は、テレビで見ることはほとんどなかった気がする。
それで、ずいぶん前、小説を書いて賞をとったとか、噂は聞いていた。
そうそう、最近、NHKの衛星放送で、変なドラマをやっている。「植物男子ベランダー」とか、タイトルちょっと違うかな。田口トモロヲという変な役者が出ている。マンション最上階のベランダで、花とか花の無いグリーンとか、時には盆栽とか、水遣りしたり、つらつらと眺めたり、かわいい女子店員のいる花屋で買い物したりとかばっかりしている、ストーリーのあるようなないような、エッセイ風なともいえるような奇妙なドラマである。
トモロヲといえば、阿部サダヲとか、このヲを使う役者、もうひとりくらいいそうだが、変な役者ばかりだ。よくいえば、奇妙な存在感のある、味のある役者。いや、良い役者です。悪いところはひとつもない。(ヲは、つまり、気仙沼演劇塾うを座のを、でもあるが、これはあまり関係がない。)
で、そのドラマの原作が、いとうせいこう、とクレジットされている。変なドラマである。ついつい、毎回見てしまう。
ところで、ちょうどいま、気仙沼災害エフエムを聞いているが、夜10時から、「みなさん、オハコンバンチハ」と、藤村洋介君がパーソナリティーを務める「ポエム・スパーキング」が始まった。コミュニティ・エフエムのような小さなラジオ局や、田舎のケーブルテレビでは、ひとつの番組を、数日にわたって、なんどもなんども再放送する。だから、おはようとこんばんはとこんにちはをくっつけて、「オハコンバンチハ」と造語したらしい。
ラジオは、テレビに比べて、ひとりひとりの想像によって補うべき部分が大きい。テレビは、まったく受動的で受け流しているだけで済んでしまう。もちろん、ラジオも、作業しながらバックに流してそれで済むということもあるが、音しかない分、どこかで映像を想像して補ってしまう。想像せざるを得ない。そのぶん、創造的たらざるを得ない。洋介君のラジオのことは、また別に書くこともあるだろうが、ここでは深入りしない。
いとうせいこうの「想像ラジオ」は、まずはリスナーへの呼びかけの挨拶から始まる。
「こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中だけでオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に早朝の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。」(7ページ)
「オハコンバンチハ」ではないが、三つ続けることで時間帯不明となるあいさつ。なんとも自由なオープニングである。この自由さは、テレビのものではない。ラジオならではのものである。
語っているのは、DJアークと名乗る38歳の男。「小さな海沿いの小さな町に生まれ育った」、このへんは「冬が長い」のだという。
「小さな海」というのはどういうことだろう。海は大きいし。基本的にはひとつだ。(カスピ海や、アラル海は、そういう名前の湖というべきだろう。)
小さな気仙沼湾も、そのまま太平洋に繋がっている。ああ、そうだ、小さな海とは、陸に奥深く入り込んだ、リアス式海岸の湾に違いない。
「冬が長い」「小さな海沿いの小さな町」。
とすると、この町は。
(とか、書いているうちに、例のベランダーの番組が始まった。今回は、いとうせいこう本人も出るらしい。おっと、これは脇道。)
この男、米屋の次男坊だという。すると、その米屋とは。
などと、想像を働かせてしまう。
ま、それはそれで、実は、正解なのだ。
そう、この町は、気仙沼そのものでもある。
この小説は、あの3年前の3月11日の出来事のあとの話であった。読む前には、気付いていなかった。
DJアークなる人物も、その津波で被害をこうむった人物なのであった。
DJアークは、想像の中で語り続ける。いや、正確には、想像の中で聴き取り続けられている、というべきだろう。
その声が聴きとり続けられ、その言葉が書きつけられ続けている。
(気仙沼のリアス・アーク美術館(方舟美術館)には、津波の瓦礫が拾い集められそのまま展示されている。)
別の章で、DJアークのラジオを聴きたくても、聴きとれていない男。作家らしい。それと、妻、ではない女との会話。
「で、それから僕は君の思い出の中の声とか、夢の中での声を追い求めた。(中略)というか、君と話したかった。」(134ページ)
「そう、これは大発明。あなたは書くことでわたしの言いたいことを想像してくれる。声が聞こえなくても、あなたは意味を聴いているんだよ」
男は、会話している。いや、会話を想像して書いている。そのような仕方で、女と会話している。
「僕の考えでは、死者の世界とでもいうような領域があって君はそこにいる。」
そこは霊界ではないと男は言う(書く)。
「そこは生者がいなければ成立しない。生きている人類が全員にいなくなれば、死者もいないんだ。」(137ページ)
ネイティブ・アメリカンの神話に、死者は、生者がひとりも彼あるいは彼女のことを思い出すことがなくなったときにほんとうに死ぬ、という話があるらしい。それとほとんど同じような話だ。
生き延びたぼくらは、思い出し、語り続ける。書き続ける。この場所で、さらわれたひとびとをひとりひとり思い出しながら。
さて、小説の後半では、この小さな町に降り注いだ放射能の話も出てくるので、それは、福島県の沿岸の町であるに違いない、ということになる。
しかし、フランス人リシャール・コラスの小説「波」が、舞台の町を気仙沼と名指しながら、ほかのすべての被災した町のエピソードを仮託したように、この「想像ラジオ」のまちも、福島県の、宮城県の、岩手県のすべての被災した沿岸の町であるに違いない。
だから、DJアーク、本名芥川何某の引っかかっている杉の木は、気仙沼の内湾の背後の小高い安波山の山頂に立つあの杉の木であることにも間違いはない、とぼくは想像する。(もちろん、現実には、そんな高いところまで波は到達していないが。)
そう、DJアークは、饒舌に語り続けながら、杉の木に逆さまに引っかかっているのだ。葬られることもなく。ぼくには、その声は聞こえない、が、くっきりと、聞こえている。
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