ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

アリスン・マギー文・なかがわちひろ訳 ちいさなあなたへ 主婦の友社

2019-06-12 23:25:05 | エッセイ

 原題は、Someday、絵は、ピーター・レイノルズ。アメリカの作品。

 表紙には、オリーブ・オイルみたいな,後ろで一つに纏めたクシャクシャの髪の若い女性が、右斜め上方に伸ばした両腕の先に、小さな赤ちゃんを手に持って支えて、見つめている姿。赤ちゃんは、ボーダーの、マンガに出てくる囚人服みたいなツナギの産着で、目は点が二つ、鼻と口はへを上下逆にした折れ線、頭髪はなし。背景は、細かなうろこ雲が浮かぶ水色の空。母親も赤ちゃんも、可愛らしく愛おしい。そうか、原題のSomedayの文字は筆記体で、これは飛行機雲で描かれた設定に違いない。

 あ、オリーブ・オイルって、僕らの年代以上のひとは分かるけど、若いひとは知らないか。僕らが小学生のころは、食品としての、食油としてのオリーブオイルなんてひとつも知らなくて、オリーブ・オイルといえばあの人物のことだった。マンガ「ポパイ」の恋人役の、ガリガリで手足の妙にひょろ長い女性。主人公ポパイ(Popeye)は、飛び出した目玉(ポップ・アイ)のセーラーマン、水夫で、ほうれん草の缶詰が大好きで、ほうれん草食べれば百人力で悪者をやっつける、その恋人だったら、当然、付きもののオリーブオイルだってんで、つけられた名前。小学生当時はそんな連想はまったく働かなかったが、今になって思えば安易なネーミングである。

 このマンガ、スポンサーがほうれん草の缶詰会社か業界団体かなにかで、栄養たっぷりのほうれん草をアピールしつつ、販促しようと制作されたマンガだとか、後にどこかで読んだ…

 おっと、閑話休題、道草食い過ぎ。

 しかし、いずれこの母親、やせてひょろひょろして、マンガのオリーブ・オイルをもっと可愛らしく綺麗にした感じ、である。

 帯には、「母でいることの幸福、喜び、不安、痛み、そして子どもへの思い…母であることのすべてがつまった絵本」とある。続けて「…全米の母親が号泣」という部分までは、紹介としては書かない方がいいのかもしれない。あんまり惹句が過ぎると白けてしまうということもある。でも…と、ここでは書いておく。

 表紙をめくっていくと、「ちいさなあなたへ」の文字の下に、なだらかな起伏のある草原の中、大の字に寝そべった女の子。向こうには海が見え、水平線のあたりに雲がわき、低い空にカモメが2羽飛んでいる。

 もう一枚めくると、ベッドに背を起こして、生まれたばかりの赤ちゃんを膝の上に載せた母親が描かれ、

 

「あのひ、わたしは あなたの ちいさな ゆびを かぞえ、その いっぽん いっぽんに キスを した。」

 

 

 どうだろう。得も言われぬ幸福な予感が漂ってこないだろうか。

 その先、母親は、赤ちゃんが少しづつ子どもへ、少女へ、大人へ、そして母親になり、白髪となる日までを想い描いて、見開きごとに象徴的なシーンが描かれていく。具体的でありながら、個別に限定されない拡がりを持ち、多くの人に分かりやすく共感しうる本来の意味での抽象的な場面となっている。ああ、そうだそうだ、そういうふうであるに違いないと共感しうる。

 訳者のなかがわちひろさんによれば、この絵本は、作者のアリスン・マギーが養子を得たときに書いた文章が元になっているのだという。このあいだ、私事で少々お願いすることがあり、その返信で、この絵本に触れられていた。

 絵本の設定的には、自然に実子と読まれていいのだろうが、血縁の有無を超えた人間による人間の養育の物語としても読まれうるとすれば、なおさらに深いものがあるということになろう。ただしこの養育は、決して能動的な教育の物語ではない。見守る中で自ずから経験し育っていく物語である。

 親と言う主語が、子どもという目的語を、他動詞の育てるの対象にする教育の物語ではない。

 哲学者・國分功一郎氏が「中動態の世界」で描こうとするような育ちの物語である、と言っていいのだろうと思う。


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