ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

鈴木翔「教室内(スクール)カースト」光文社新書。解説本田由紀。

2013-07-12 00:02:21 | エッセイ
 「人間が出会うと、そこには必ず「値踏み」というものが発動する。…人は相手が自分より「高い」のか「低い」のか見極めようと(いうか「分類してしまおうと」)するのである。」という冒頭の文章は、実は「豊島ミホ」というひとの『底辺女子高生』(幻冬舎)という本からの引用らしい。
 この「値踏み」のようなものは、教室内に限らず、人間のあらゆる集団についてまわる。好むと好まざるにかかわらず。人間の「業」と呼ばれるものの、主要な現象のひとつといっていいはずだ。
 鈴木翔は、社会学者、というより、まだその卵というべきか。群馬大学教育学部から東大の教育学の博士課程に進んだようだ。
 「カースト」というのは、本来、インドの身分制。前近代の象徴。近代的な自由な職業選択とかそれを超える婚姻とかを許さない社会的な分断。
 学校の教室の中に、あたかもインドのカースト制のような身分制があるという。(もちろん、インドのほんとうのカースト制とは、まったく別のものであることは言うまでもない。)
 思い起こすに、私の子どものころ、そういうものがあったかどうか。東北の小さな田舎町にそういうものがあったかどうか。
 確かに、そういうようなものはあったと言える。値踏みのようなもの。あるいは、教室内の雰囲気を実質的に支配しているような数名のグループは存在したし、あまり、存在感のないような地味な目立たない子どももいた。
 でも、この本に描かれるような階層とは、若干、違っていたようには思う。今ほど、固定化され、分断されてはあらず、もっとゆるやかなグループだったみたいな。階層の上昇みたいなことも、もっと起こっていたような気がする。
 このスクールカーストは、この本の中で、通時的な考察は行われておらず、歴史的な経緯は明らかでないので、何とも言えないが、前近代的な、戦前から残っている封建遺制みたいなものではなく、むしろ、最近現れてきた傾向というように読むべきなのだと思う。(通時的な考察が行われていないというのは、いささかもこの新書の欠点ではない、念のため。この本が切り開いた問題群においての次の課題ではあるだろう。)
 「スクールカースト」という言葉が「いじめ」と関係が深いことはいうまでもない。「僕は、厳密に言うと、『いじめ』と『スクールカースト』があることとは、完全に同じことではないと思っています。もっと言うと、『いじめ』だと認識される問題の多くは『スクールカースト』があることによる弊害の一部なのではないかと思っています。」(41ページ)
 教育社会学の新進学徒による、新たな切り口による、現在の学校の、優れた状況分析、ということになるのだと思う。
 さて、ここから、私自身の小学生のころの在り様、中学校から高校にかけての在り様というところを、教室内における地位の変遷という観点から詳しく書いていけば、それはそれで、一個の小説ということにはなるのだろうが、それはまた別の課題となる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿