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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大澤真幸・岩井克人「3・11後の日本経済 THINKING第10号記念号」左右社

2014-07-07 14:04:42 | エッセイ

(ツイッターから 2012年2月6日~7日 および 補足)

 「夜戦と永遠」よりは、圧倒的に分かりやすい。一本目の大澤の論文「原発はノンアルコール・ビールか?」は、キリスト教徒が読んだら顰蹙ものだろうな。原発を神に等値する。

 キリスト教徒は、既にメシアがやってきた世を生きているのだそうで、であるとすれば、非常にきついことになるな。メシアは来たのだけれども、ひとは救われていないのだから。

 鉄腕アトムは、原発が夢であった時代の夢であったことは間違いがない。当時、21世紀は夢の時代だった。幼い子供であったぼくらにとって。原子力を自由自在に操って。

 ところで、大澤「原発は…」は、まるで一編の小説を読むように感動した。「ハンス・ヨナスは、…エティ・ヒレスムという…若いユダヤ人の女性の日記を引用している。…『あなた(神)は私たちを助けることができない』が、逆に、『私たちの方こそがあなたを助けることができる。』」(50ページ)

 岩井克人は、ぼくが現在最も信頼する経済学者だ。「ベニスの商人の資本論」、「貨幣論」、「会社はこれからどうなるか」。大澤真幸との対談「資本主義は人類最後の選択肢か?」これも、非常に納得できるものだ。

 岩井克人「以前は、資本主義の敵は、自由主義の最大の敵たる社会主義であったわけですが、今はアメリカ的な自由放任主義です。…自由を守るためには自由放任主義を捨てなければならないという逆説があるのです。」(3・11後の日本経済98ページ) 全く、その通りだろうな。

 大沢真幸「新古典派では、貨幣は生産と消費の間の透明な媒介であって、本質的な機能をもっていない。つまり貨幣が存在しないかのように扱ってもよいということになる。それに対して岩井さんは媒介としての貨幣が、それ固有の機能をもつと考える。」81ページ。

 

※以上が、ツイッターでのつぶやきだが、最後が唐突だな。文脈がどうなのか、つかみづらい。

 新古典派で、貨幣が透明な媒介で、存在しないかのように扱ってもよいと考える、実はその考え方こそが、現代の社会の大きな問題の原因である、というような理路になるか。そうではなくて、岩井氏は、媒介としての貨幣は、言ってみれば、実体であると。実体として存在すると。それ固有の機能を持つのだと。

 全世界的に過度に合理的な考えが流通し、透明な媒介でしかない貨幣という考えが跋扈する、流通する、そんな新自由主義的な考え方、アメリカ的な自由放任主義がいつまでも通用しているようではいけない。

 ちょっとここは分かりづらいか。貨幣、つまりマネーのみを求める、マネーの増殖自体を求めるような資本主義。金融資本主義というのか。ここでのマネーは、何にでも自由に交換できる価値のことだ。

 具体的な、ドルや円や元などという、国家に縛られた個別具体の通貨のことでなく、交換価値。抽象的な価値。

 しかし、そういう価値は、実際には、ドルとか円とか元とかの個別具体の形をとらざるを得ない。

 そのなかで、ドルが、最も抽象的な価値を体現する通貨とされている。しかし、このドルが、アメリカ合衆国という個別の国家の通貨であることも、また、間違いのないことだ。

 岩井氏は、だから、このドルですら、普遍的な価値そのものではないということを言いたいはずだ。アメリカ合衆国という個別具体の国家に縛られたものなのだ。その国家の政治体制に左右されるものなのだ。

 そんなわけで、過度の自由さはよろしくないということになる。

 さまざまな障壁の存在することがよろしいのだ。

 我々人間ひとりひとりの尊厳を守るためには、障壁をこそ、大切に守って行かなければならない。

 障壁を尊重して、ひとりひとりを大切にする、実際の人間同士の触れ合いを大切にする。そういう経済活動こそ求められるべきもの、ということになるはずだ。

 自由と障壁、個人と共同体について、ここには、大きな価値の転換がある。こここそが、いま、いちばん、問題となっているところだ。

 常識とか、中庸が、やはり、大切なのだ、となるところでもあるかもしれない。


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