ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

最小公倍数と最大公約数

2016-09-04 15:54:57 | エッセイ

 ちょとウィキペディアで、最大公約数の項目を見てみたら、公約数のうちで最大のものみたいな説明で、そうかそうかと公約数を調べると約数のうちのこういうもの、みたいな説明になっている。で、約数をみると、まあ、何らかの説明はあり、算式も並べてある、ということになる。

 その算式は、

 

50 の正の約数は 1, 2, 5, 10, 25, 50 の 6 個である。実際に

50 ÷ 1 = 50

50 ÷ 2 = 25

50 ÷ 5 = 10

50 ÷ 10 = 5

50 ÷ 25 = 2

50 ÷ 50 = 1

と 50 を割り切る全ての数である。(ウィキペディアより)

 

というようなことで、特段、難しいことはない。しかし、まあ、6つの算式が並んでいて、面倒くさいとは言える。

 数学というのは、厳密さを求めるので、ひとつひとつ手順を追っていけば難しいこともない場合が多いのだが、その手順を追うこと自体が面倒くさいことこの上ない、という場合が多い。

 と、字数を費やしたが、ここで、最小公倍数と最大公約数と言っても、厳密なその定義のことをとやかくしたいわけではない。一種のたとえ話、比喩として使おうとするだけだ。

 しかし、せっかく上に「50」の約数を拾ったので、そうだな、「60」との公約数を調べてみようか。

 「60」の約数は、以下のとおりとなる。(めんどくさいので、負の数やらは考慮せず、自然数の範囲内のみで考える。―などという注記自体がメンドクサイものであることは言うまでもない。)

 

 60÷1=60

 60÷2=30

 60÷3=20

 

 ここまでで、実はこの算式の割る数(=の左側の数字)も、答え(=の右側)も、どちらも60の約数になっているのだが、割る数の「1」と「2」は、「50」の方の算式にも出てくるので、このふたつは、「50」と「60」の公約数である。しかし、「60」、「30」、「20」は、「50」の方には出てこない。したがって公約数ではない。

 続きは、

 

 60÷4=15

 60÷5=12

 60÷6=10

 

 ここまでで、「5」は公約数であるが、「10」も公約数である。

 

 この先、7,8,9では割り切れず、

 

 60÷10=6

 60÷12=5

 60÷15=4

 60÷20=3

 60÷30=2

 60÷60=1

 

 と、まあ、こうなる。

 ということで、「50」と「60」の最大公約数はいくつか、ということだが、正解は「10」である。

 なるほど、まあ、メンドクサイ。ひとが数学嫌いになるのはさもありなん、というところだ。

 論理学というのは、実は、数学と同じもので、哲学の基礎には、論理学がある。したがって、哲学的に厳密なことを言おうとすると、数学と同じようなシチメンドクサイ手続きを踏まなくてはならないということになって、一般人は、とてもそんな暇だれにつきあってられないということになる。

 (ただ、論理学と数学の違いは、というと、数学が抽象的な数字に引きづられてどこまでも増殖していく、宇宙の果てまで飛んで行ってしまう危険性を持つのに対して、論理学は、常に自然の言語とのつながりを断ち切ることができず、地表のあたりをうろかろしている、みたいなイメージはあると思う。もちろん、こんなことを言っても比喩でしかない。)

 さて、次は公倍数である。これは、もうメンドクサイから、答えを言ってしまう。公倍数とは言っても、そのすべてではなく(もちろん、公倍数は限りなく、夢幻に、いや、無限に存在する)、最小公倍数である。

 「50」と「60」の最小公倍数は「300」である。

 でも、やはり、いちおう、数式を並べて置こうか。

 

 50×1= 50   60×1= 60

 50×2=100   60×2=120

 50×3=150   60×3=180

 50×4=200   60×4=240

 50×5=250   60×5=300

 50×6=300   60×6=360

 

ということで、「300」である。

 したがって、「50」と「60」の最大公約数は「10」、一方、最小公倍数は「300」ということになる。

 困ったな、「10」と「300」では、違いすぎる。ひとケタ違うという話になる。いま、私が、公約数と公倍数という比喩を使って言おうと思っていたことには、使いづらいことにあなるな。

 あ、そうか、集合論の考え方で説明するといいのか。

 見識の問題、としよう。

 A、B、Cの三人がいるとする。この3人で何か物事を成し遂げようとする。この3人の共通理解があってはじめて、物事が成立する。

 まあ、バンドでもいい。このバンドでどんな音楽をするのか。

 Aさんは、音楽のジャンルでいうと5種類のジャンルをやってみたいとかんがえている。

 

A(c、r、j、b、h)

 

Bさんも5種類のジャンルに取り組みたいと思っている。

これが、Aさんとまったく同じであれば、何の問題もない。ところが、4つは共通だが、ひとつは別のものであった。

 

B(c、r、j、b、t)

 

そして、Cさんも5つのジャンルが好きだが、

 

C(r、J、b、t、f)

 

とまあ、こんな具合。

 (ちなみに、ここでのジャンルは、クラシック、ロック、ジャズ、ボサノヴァ、邦楽、タンゴ、フラメンコ、とか、まあ、何でもいいのだが。)

 

 最大公約数的な発想をすると、この3人組のバンドABCは、(r、J、b)のジャンルの曲ができるということになる。まあ、ロックでジャズでボサノヴァだから、これはこれで大変よろしいということになる。

 こで、最小公倍数的な発想をとると、バンドABCは(c、r、j、b、h、t、f)の7つのジャンルにまたがった豊かな演奏ができるという話になる。クラシック、邦楽、タンゴ、フラメンコの要素まで持ち込める。

 しかし、ここで、Cさんは、他は許容できるが、hだけはどうしてもいやだとか、いろいろな意見があり、調整しなければならないということが出てくる。

 3人での話し合いの結果、では、hは除外して、cとtとfの要素は入れていこうということになれば、それはそれでよいことである。

 検討して、tとfは難しいとなれば、cの要素だけは付加していくとか。

 というような話を持ち出して、私は何を言いたいかというと、ひとは新しい事業を起こそうと言うとき、最大公約数的な部分だけで、まとめていけば話は簡単であるということである。

 しかし、それで面白いことになるのか、ひとをひきつける魅力のあるものになるのか。

 それぞれの見識、能力を持ち寄って、公倍数のところまでいったん射程に入れて、構想を立てる、ということが必要なのではないか?

 ボトルネックを解消することで、最大公約数に対して何か付加できるのであれば、そこを求めていく。

 と、まあ、なんであれ、私はそういうことでものごとに取り組んできた。だから、必ずしも安易な道をのみ選んでは来なかった、みたいな。かといって、頭から道なき道を進もうということはなくて、関係する人々の持っている能力から言って、ここまでは簡単に通る、さらにここのボトルネックを解消すれば、ずっと大きなパフォーマンスが得られるのであれば、そこを求める。そういうふうにして、仕事をしてきたというつもりはある。しかし、ゼロから何か大きな仕事を成し遂げた、などということはない。

 一方、構想の段顔で、少し広げて大きなものにして、あとで、実現の段階で苦しむ、ということがなかったわけでもない。しかし、結果、最大公約数の範囲よりは、もっといいものが実現できている、ということはあったわけである。

 と、そういうことを言いたいために、初歩数学的なおはなしをながながと続けてしまったというわけだ。


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