ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

原発が経済的な代物であることについて

2015-04-16 00:37:42 | エッセイ

 原発が経済的な代物であることは言うまでもないことで、ここでいう経済的というのは、単純にコストが安いという意味での経済的ではなく、コストが高いとか安いとかに左右される、市場経済というゲームの駒であるという意味。

 経済的というのは、確かに、ある見方においては、コストが安いということでもある。使用済み核燃料の処理を永遠に先送りする限りでは、まさに経済的でコストが安いということになる。

 一方で、原発が放射能という毒を抱え込んだ危険な施設であることも論をまたない。生物学的な意味での生存にとっては、まさしく毒であり悪そのものである。ないにこしたことはない。

 しかし、社会的な意味での生存、つまりは生活にとっては、コスト安である限り、善であるとも言える。

 人間が、自給自足で生きられるなら、原発の必要性はゼロである。しかし、ライフラインが、自給自足でなく、他からの供給に頼らざるを得ない限り、原発が必要とされる可能性も残されうる。

 ところで、原油の価格は、乱高下する。戦争とか内乱とかの要因で、供給不足に落ち入って暴騰したり、最近のように、暴落したりする。

 原発があることで、原油のコストの乱高下を緩衝する役割が期待できるとも言える。しかし、もう一方で、原発の経済性というのは、国際的な紛争による原油価格の上昇下落の範囲内のことでしかない。今回のような原油価格の下落で吹っ飛んでしまうような経済性でしかない、とも言えるのではないか。

 原発が、生物学的な生存に対して、毒である、徹底的な、致命的な脅威である限り、すべて廃棄されるべきものであることは間違いない。私は、間違いなく脱原発派である。

 ただ、即時完全廃棄を主張するかというとそうでも無くて、現にある限りの核燃料や廃棄物がどう安全に保管されるか、ということも相当に重要なことだと考える。安全に保管する手法の一つとして、現に稼働している原発を当面維持していくという選択は有り得るとも思う。

 しかし、もちろん、他にもっと安全に保管し、あるいは、何らかの手法で無毒化できるというのであれば、そちらの手法を選ぶべきであることも言うまでもない。

 少なくとも、致命的に危険な毒性を有する核物質は、投下した資本を何年間かで回収しなくてはならないみたいな市場経済のゲームに任せておくべき存在ではないことは確実なことだ。人間が死に絶えても自由市場は残る、みたいな本末転倒が許されてはならない、はずだ。

 生命的な生存の維持と金銭的な生存の維持の対比。

 殺人と窃盗と、どちらが罪が重いか。厳密な法学者とか、全ての前提を疑ってみる哲学者とかでない限り、そんなことで思い悩むひとはいないはずだ。

 エヴィデンスを示しながらみたいな具体的な議論に踏み込む前の、大きな枠組みとして、以上のようなことが前提条件となる、というふうに私は考える。

 これはとてもシンプルなことであって、疑いようもないことだ。なぜ、この点で議論が起こり得るのか、良く分からないとすら言いたい。議論は、論理的には既に決着している。

 中沢新一が、太陽圏と大気圏との対比で言ったような、とてもシンプルなこと。こういうシンプルなことが、往々にして受け入れらなかったりするというのは、いったいどういうことなのだろうか。

 ああ、そういえば、原発の経済的側面のほかに、潜在的な核弾頭保有国になりうるという軍事的な意味を主張する輩もいるな。その点については、また別に考えてみなければならない。

 ところで、何千年かのあいだ、核燃料なり高度の汚染廃棄物が残存し続ける限り、あるいは、安全な無毒化処理の技術が確立するまでのあいだ、大学の原子工学の部門は残って、専門家を養成し続けてもらわなくては困るわけだが、いま、すでに、どこの大学にも、そういうあからさまな名称をつけた学科は存在していないようだ。

 大学の学部学科の名称は、かなり露骨にマーケティングの結果が反映されているのではないか?この意味で、原子力に、もはや未来はないことは確実なことのはずだ。

 鉄腕アトムの時代のような夢、神通力が、原子力にはすでに無いわけであるから、そこを志望する学生などほとんどいない、というのもごく自然に想像しうる事態だ。いくら流行らなくとも、人類の安全を守る使命感に燃えてその道を志す子どもももちろんあり得るわけだが、この専門家の養成という問題は、いったいどういうことになるのだろうかと、いつも心配している。

 


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