「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」とセットになった、東浩紀の思想地図β(ベータ)vol4の第2分冊ということになる。
分量が多い、文字が小さい。多くの人の書いた多くの記事が載っているので、読み応えがある。ふつうの雑誌と違って、ひとつのテーマのもとに書き分けられた文章群なので、興味のないのは簡単に飛ばして読めばいいという代物でない。読めば、それぞれ興味深い。
しかし、特に、脚注などの注記の字が小さい。ほとんど読めない。色も黒でないところがある。というわけで、注はほとんど飛ばした。
思想地図βは、45歳以上の人間を相手にしていないに違いない。
(ちなみに、いま、ここ机のところで開いてみると問題なく読めるが、夜寝床で寝そべって見ている場合には、非常に見づらい。照明の明るさのこともある。)
などということはさておき、あの福島第一原発を観光地にする、というこの表題、いささかセンセーショナルではある。ヒンシュクを買いかねない表現だ。実際、賛否両論はあったらしい。
東浩紀もこう書いている。「読者の中には、事故跡地を『カッコいい』ものにするとはあまりにも軽薄ではないか、そのような戦略で観光客を集めたところで被災者感情を逆なでするだけではないのか、と疑問を抱くかたがいるかもしれません。」(14ページ)
そもそも、観光という言葉は下品な意味合いに捉えられかねない言葉だ。いや、そもそもと言えば、この本の後のほうにも書いてある通り、「中国古典の『易経』における『国の光を観る』というフレーズを源として」(144ページ 井出明「ダークツーリズムから考える」)いるわけで、とても上品な言葉なのだが、物見遊山だけでなく酒池肉林まで含みこんでしまうようなイメージがつきまとう。
これは、昔々のお伊勢参りに必然的に付随していたらしい遊宿というようなこともあって、日本人の心性に深く染みついた感じ方とまで言ってしまえることなのかもしれない。
もちろん、ここでの観光は、そこまで広げてしまった、というか、狭めてしまったというか、そういう意味のことばではない。市役所の組織にも観光課がある、という意味合いでの観光、オフィシャルな意味合いでの観光。
「『観光地化』とは、ここでは、事故跡地を観光客へ解放し、だれでも見ることができる、見たいと思う場所にするという意味で用いています。遊園地を作る、温泉を掘るという短絡的な意味ではありません。」(東浩紀 12ページ)
「フクシマを見ることを、カッコいいことに変える。できるだけ多くの人々に、フクシマを『見たい』と思わせる。ぼくたちは、そのようなイメージの転換こそが、事故の教訓を後世に伝えるために、そして被災地の復興を加速するために必要不可欠だと考えているのです。」(14ページ)
「防護服に身を包む事故処理作業員、吹き飛んだ原子炉建屋、放射性物質が発散し死の街となった『フクシマ』といった暗いイメージを根本から変革し、フクシマについて考えることこそが、日本の、そして世界の未来について考えることであるという新しい『空気』を作り出すこと、それがこの計画を貫く精神です。」(14ページ)
こう読んでくると、これはこのまま、気仙沼にもあてはまるものだと分かる。もちろん、気仙沼には、津波はあっても、原発事故はないわけだが。
震災のツメ跡を、広く多くのひとびとに観てもらえるように整理し、公開する。多くのひとびとに、ここ気仙沼に足を運んでもらう。その手立てを考える。
冒頭の東浩紀の趣旨説明のあと、ジャーナリスト・津田大介、社会学者・開沼博、建築家・藤村龍至など、興味深い論考やレポートが並んでいるが、最後の補遺の中に、観光学者・井出明氏の論考「ダークツーリズムから考える」がある。
上にも引いたとおり、観光は「光を観る」ものだが、ダークツーリズムは、観闇と訳せばいいのか、人類史の暗い部分、つらい部分、そう、闇を観るためのツーリズムである。
「ダークツーリズムという営みは、人類の悲劇の跡を訪れるため、その価値の根幹部分が、“悼み”と“地域の悲しみの承継”にあるという点については確かである。まさに、ダークツーリズムは、“悼む旅”なのである。」(145ページ)
「肉親をはじめとする大切な人を亡くした方々は、極端な喪失感に襲われることが広く知られているその方々にとっては、遺構は非常につらい存在であろう。しかし、遺構を保存することで亡くなられた方の命を地域の記憶として保つことができる。ダークツーリズムの研究者、及び遺構の保存を提唱する者は、遺構が長期的に見れば供養と残された人々への癒やしとなることがわかっていただくための努力をしていかなければならない。(152ページ)
これは、まさしく、今の気仙沼のために述べられている文章である。特に、もうすでに解体されてしまった第18共徳丸のことを思い浮かべれば得心の行くことである。
「日本各地には、多くの悲しみが存在するが、一般にダークツーリズムの目的地となるところは、その地域が経済的に活況を呈しているか、もしくはダークツーリズムポイント自体が経済波及効果をもたらすような存在であることが多い。(152ページ)
「今回のプロジェクトでは、博物館が観光対象としても、また事故の記憶のアーカイブおよび展示を行う場としても大きな役割を占めている。」(155ページ)
これは、リアス・アーク美術館のことを指してしまっている。井出氏の念頭に、リアス・アークがあったわけではないが、現に気仙沼にあるリアス・アーク美術館は、まさしく、ここに語られるようなものとして現存してしまっている。
さて、東浩紀は最後の「旅の終わりに」で、こんなことを書いている。
「福島第一原発観光地化計画は、ぼくにとっては-ぼく個人にとっては、…なによりもまず『文学的』な計画だった。」「多少大げさに言えば、哲学と文学の復興に向けた提案でもある。…(中略)…『ここにはないもの』を想像することは、現実の人生のために、つまり、『ここにあるもの』を動かし、変えるためにこそ絶対に欠かせないのだと、そのようなことをなんとか実例で示したいと考えた。それがぼくの知識人としての責任だと考えた。」(185ページ)
この本の現実的な目的からは、いささかはみ出たようなこの「あとがき」、東自身、読み飛ばしてもらってかまわないと書くのだが、私にとっては、この「あとがき」はたいせつなものとなる。「ここにはないもの」のたいせつさ。
現にある気仙沼に、「ここにはないもの」を重ね合わせること。それこそが、私にとっての、ここ30年のテーマであり続けたものだからだ。
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