ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

エッセイ 「海のおくりもの」が気仙沼に贈るもの

2010-01-30 19:00:42 | エッセイ
これも、まだ20世紀に書いたもの。気仙沼演劇塾うを座立ち上げて、第1回目の旗揚げ公演の前に、地元紙に掲載いただいたもの。

 演劇はドラマであるが、現実世界も負けず劣らずドラマである。
 人間のさまざまな思いが、ぶつかったり、すれ違ったり、出会ったり、調和したりする
 ところが、ミュージカルを創造する過程は、フィクショナルなドラマと、ノンフィクシ
ョナルなドラマが、複雑微妙に重なりあって、えも言われぬ波紋を生み出す。
 この過程は、人間に、深い感情を呼び起こす。ある場合には、取り返しのつかない断絶
を生み出す。
 しかし、いま、この場所に、人間たちを包み込む大きな共感が育まれつつある。地球上
の全ての生き物や、存在する全てのものを愛することができるような感覚が育ちはじめて
いる。
 閉じてはいけない。開かなくてはいけない。
 壤晴彦さんは、こう書いている。

  君をとりまくなにもかもが
  待っているのさ
  君がこころをひらくのを

 この言葉は、ミュージカルのテーマソングとして、俳優たちが観客に向かって歌いかけ
る歌詞であるが、同時に、演出家壤晴彦が、うを座のこどもたちに向かって投げかけ、ま
た、われわれ地元スタッフに投げかけるメッセージでもある。
 8月半ばを過ぎて、公演に向けての練習が大詰めを迎えようとする時期、大幅なキャス
トの入れ替えを、壤さんは断行した。
 地元スタッフのだれもかれもが、つい数日前までは、そんなことが行われようとは想像
すらできなかった。ただひとり、鈴木恒子座長は、違う思いを抱いていたようだが。
 ことの詳細は、ここに語り尽くすことができない。
 しかし、壤さんの賭は、現在のところ、全くうまくいっている。
 ひとつは、年齢の問題、また、こどもひとりひとりのキャラクターや性格の問題、どう
しても、配役と、折り合えないあるいは届かないこどもがいる。
 また、別には、後から遅れて参加したにもかかわらず、真摯に、いきいきと楽しく練習
に励み、どんどんと頭角を現し、自らの手で、大きな役をつかんだ子もいる。
 結果、交代したこどもは、みんな、おおらかに明るく、動いている。踊っている。歌っ
ている。
 そして、交代のなかった子を含め、あらためてピシリとした緊張感が、全体を覆った。
 地域において、こどもたちを集め、本格的なミュージカルを上演する。
 参加した全てのこどもを舞台に立たせる。そして、舞台の満足感を味わわせる。しかし
、作品の質はあくまで、追求する。どこかで、折り合わなければならない。
 しかし、現状のレベルで、妥協することは、絶対にしない。ぎりぎりの選択の縁に立た
される。
 これは、こどもたちの配役の問題のみではない。
 練習会場の問題、衣装の問題、大道具制作の問題、などなど、そして、費用の問題、何
一つ、気楽に、安易にこなせる問題はなかった。
 しかし、さまざまな要素が、今、大きくうねりはじめている。「その日」に向けて、す
べてのものが、共に動き始めている。
 「海のおくりもの」テーマソング「もしも悲しくなったら」の二番は、次のようなもの
である。

 もしも恐いと思ったら
 ぐっと胸をはればいい
 ほら いま お日さまがわらっただろう
 君の勇気が届いたから
 この世の中のなにもかもが
 知っているのさ
 君がほんとは強いのを

 この歌の本当の力を、いま、この紙面では伝えることができない。
 9月11日と12日の二日間、市民会館大ホールの三回公演、そこで、気仙沼のこども
たちが、竜宮の玉手箱を開く。その中には、歌と踊りとお芝居と、そして、二一世紀を切
り開く「希望」が詰まっている。
 その現場に立ち会っていただくほかない。



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