ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

震災復興とオリンピックという堅苦しいテーマ

2013-09-14 01:28:54 | エッセイ

  東京オリンピックの招致が決まったようで、大変目出度いことだと思う。

 そのなかで、佐藤真海、千田健太という気仙沼出身者が役割を果たしたということは有難く、なおさらに目出度いことだ。ふたりには、震災後の気仙沼の復興のなかで、大きな役割を果たしてもらったと言えるし、これからも大きな勇気と喜びを与えてもらえることになる。

 例のプレゼンの前までは、ぼく自身は、どちらでもよかった。東京にこようが、マドリッド、イスタンブールであろうが、これからも4年ごとに、冬季を入れれば2年か、日本人の参加するスポーツの祭典を楽しみ続けることができるのだから。

 しかし、あえて言わせてもらえば、あの佐藤真海さんのちょっと上ずったようなスピーチを聞いてから、ああ、東京に決まってよかったと思うこととなった。

 ぼくは経済学を良く知らない。どうも良く分からない。いわゆる近代経済学の本はほとんど読んだことがないから、かもしれない。

 それと財政の問題か。収入と支出ということは、じつは、一筋縄ではいかない問題を含んでいるらしいのだが、簡単に言ってしまえば、財政と言うのは、収入に合わせて、その範囲内で支出するというごく当たり前のことだ。したがって、Aという分野にお金をつぎ込めば、Bという分野にお金はあまり回らないということになる。国の財政の中で、オリンピックにお金をつぎ込めば、それだけ、震災復興への支出が減ることになる。それは確かにそうなんだろうと思わされる。しかし、ことはそう単純ではない。

 支出の分野で考えてみる。

 そもそも国のお金は、森羅万象といってもいいくらい、さまざまな分野につぎ込まれている。震災復興に100%充てるなんてありえないことだ。スポーツ振興にも(スポーツ分野の人々から見ればまったく不十分だと言われるだろうが)お金は支出される。その割合は年々変動する。オリンピック向けに、一定の金額が増やされ、消費されることは確かなことだ。しかしそれは、単純に震災復興を削ってオリンピックに回す、ということではない。そう短絡的なものではない。

 それと、こういうことがある。収入、税収のことだ。

 経済は、ディズニーランドによって回転し、成長する。浦安のディズニーランド、ディズニーワールド単体をとっても、相当の経済効果をもつのだろうが、具体的な数字のことは、ぼくは知らない。ディズニーランドや、巨大なテーマパーク、地方の遊園地そういうもののトータル。それから、そうだな、ディズニーのアニメ、宮崎アニメもそうだ。それなしで、日本の経済はどう動くのだろうか。

 映画、ミュージカル、演劇、歌謡曲、Jポップ、そういうものがなかったら、経済はどうなるのだろうか。CDの売り上げや、DVDのレンタル料、小説の売り上げ。

 様々な娯楽、エンタティメント、そういうものたちがなかったら、経済はどうなるのだろうか。

 生存のために必要な食糧、衣服、住居、水、電気、鉄、そういう必需品のみで経済は回るのだろうか?

 そうそう、食糧。それは、生きるに必要なカロリーや栄養素を摂取できればいいのだろうか?フランス趣味のグルメとまでは行かないとしても、ひとは美味しいラーメンを求めるではないか。そう、衣服。世の中に、ファッションというものがなくて、暖を取り、デリケートな部位を隠すためにのみ衣服を着るなどということが、どれだけあるだろうか?

 食にも、衣にも、そして住にも、「必要」だけでなく、楽しみ、美しさ、喜びの部分が切り離せずに付いてくる。だからこそひとは消費するのだ。お金を使うのだ。それぞれの生活を振り返れば、まさしく、そうでしょう。そう言わざるを得ないということが納得できるはずだ

 生活は、生存が維持されるだけで成り立つものではない。生存が維持された上で、なにがしかの喜び、なにがしかの楽しみ、エンタティメントなしには成り立たないのだ。

 もっとも、ぼくは、最近、経済は成長しなくてもいいのだ、という論調に同調している。賛同している。しかし、成長はしなくていいのだが、巡回はしていなくてはならない。お金がまわって、それと逆向きにサービスが回っていなくてはならない。(いや、本当は、サービスさえ回っていればいいのだが、その大方は、逆向きにお金が回ることでスムーズに回る、ということがどうやらほんとうらしい。贈与は交換に先立つのだが、かといって交換なしに経済は成り立たない。つまり生活が成り立たない。)

 経済がうまく回らなければ、税収は上がらず、なすべき支出ができないことになる。エンタティメントなしには、経済が回らず、税収が上がらず、震災復興の予算支出もできない、ということになる。

 税収のことだけではない。

 先ほども言ったとおり、生活は、なにがしかのエンタティメントなしには成り立たない。

 震災復興とは、生存の維持を言うのではない。ここが大切なところだ。生活の復興なのだ。エンタティメントを含む生活の復興こそが、被災地の復興なのだ。

 震災で肉親を失った人の悲しみが癒えるまで、震災で仕事を失ったひとがすべて再就職できるまで、ぼくたちは、くそ真面目に、楽しみも楽しまず、最低限の衣食住で我慢して、暮らします、などということは、不可能な話なのだ。こんなことは言うまでもない。映画も見るな、歌も歌うな、酒も飲むななんて、あり得ないお話だ。

 ぼくらは生活を楽しもう。そして、当然、オリンピックも楽しもう、ということになる。

 あの「国がしっかりコントロールしている」という話は、まさしくそうあってもらわなくては困るわけで、その建前を、実質的なところでもしっかりと追求し続けてもらわなくては困るということだ。そういう部分は、もちろん、しっかりと監視していくことは必要で、手放しで喜ぶとか、手放しで為政者に委任しておけばいいという話ではない。

 そのうえで、ぼくらはオリンピックを楽しみ、震災からの復興も成し遂げなければならないわけだ。

 また、念のため言っておけば、だからオリンピックに対しては放埓な財政出動をしなければならないなどと言う話ではなく、しっかりとしたコントロールが必要であることは言うまでもない。(必要であるはずではあるが、ここも、追求する、あるいは、希求するくらいにの言い方に留めておくべきか?)

 ということで、震災復興と東京オリンピックは、どちらもきちんと成し遂げましょうという、ごく穏当な、常識的な、どっちつかずの、中庸な答えが導き出されることになる。

 まあ、二兎を追うべきだという虫のいい話かもしれないが、いや、そうではなくて、追うべきだし、そのほうがいい結果がもたらされるのだよ、という非常にポジティブなシンキングであるとも言える。

 どちらにしても、まあ、未来は夢を持って明るく考えたほうが良い、のではないだろうか?くそ真面目などくそ喰らえである。

 ところで、「芸術こそが、現代資本主義の肝である」という仮説がある。それのひとつの(ひょっとすると歪んだ)実現形態があの「電通」である、みたいな。まあ、こういう大きな話は、そのうちに気が向いたら。


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