東大法学部、というより公共政策大学院教授ということになるのか、森田朗先生の初版2006年の本だが、2010年に第2刷が出ている。この手の専門書では例外的に売れた本ということになるのかもしれない。
この本では「主として、社会的に重要な機能を果たしている政府や地方自治体における審議会等の会議を念頭に置いて述べる」(まえがき)ということだが、「そこで述べることは…(中略)…多くの会議に当てはまるであろう。」
実は、私は、市役所で仕事をしてきた大半が、この本で述べられているような会議の運営であったと言って過言でない。正式な審議会という名称のものはないが、なんとか戦略会議とか、なんとか検討委員会とか、協議会とか実行委員会とか、観光課や図書館で、立ち上げ、委員を人選し、要綱を作り、会議資料を作り、委員長や主な委員と打ち合わせし、事務局として説明し、報告書の文案を書いてきた。この本に書いてあることまるまるそのまま経験してきた。
言わせてもらえば、このあたりで、この手の会議の切りまわしをさせたら、私の右に出るものはいないはずである。
だから、森田先生のこの本の一種の実践版、例えば「気仙沼における会議の政治学」などというものは書けるし、ぜひ、書いてみたいとも思う。まあ、退職後に。
さらにいえば、この本をテキストに使わせてもらえば、どこかの大学とか公共政策大学院で、ゼミの指導もできる、と自負するものだ。(それこそ、どこかの公共政策大学院で修士をとらないと資格的には難しい話だろうが。)
この本は、3つの章で構成されており、第1章は「会議の政治学」、主に、委員の観点から審議会について説明する。第2章は「会議の行政学」、主に事務局の観点から述べる。
実は、ここにこそ、会議の実質はある。いや、「本質」は、委員のなかにある、そうあるべきものなのだが、事実上の「実質」は、事務局が握っているものなのだ。
第2章の目次を並べると、1事務局から始まって、2委員の選任、3スケジュールとアジェンダの設定、4会議資料、5会議の進行―演出と振り付け、6意見集約―答申の作成、7応援団の効用と、まさしく私がやってきたこと、そのままである。
第3章は「会議の社会学」、情報公開と世論、そしてメディア、マスコミのこと。
一読、そうそうそういうこと、と膝を打ちながら読み進め、なるほどそうかと、新たな知見も教えられるという書物であった。
第1章の末尾のあたりに、こういう言葉がある。
「政治学を仮に『権力の経済学』と考えるならば、人は権力の最大化をめざして合理的に行動するといえよう。そして、権力を保有していることの現れが、自尊心であり、メンツであるとするならば、人はそれが得られ、それを維持できるならば、他の経済的利益やその他の価値を犠牲にすることを厭わないかもしれない。いかに顔を立てて、合意に導くか。」(51ページ)
政治は、いわゆる政治家の世界のみにあるのではない。当然のこととして審議会の内部にも政治はある。もちろん、ふつうの人間の生活のなかにも政治はある。まして、役所の中は、全てが政治であるというべきである。字義通り「行政」とは政治を行うことにほかならない。こういう政治があるからこそ、人生は面白いともいえる。政治学というのも学ぶべき分野かもしれない。
最終章は、メディア、マスコミのことが大半である。
「メディアは、かっての大本営発表のような権力からの発信に対する免疫機能こそ自分たちの役割というが、この世の中につねに絶対正しいものは存在しない。メディアのもつ限界と危険性に対処するためには、メディア自身の自制に加えて、読者や視聴者が、それに対する免疫を身に付けることが必要である。」(174ページ)
いわゆるメディア・リテラシーの必要性が語られる。
そして、「この世の中につねに絶対正しいものは存在しない」、これこそ、政治学のキモというべきポイントであろう。これは、まさしくその通りのことである。
あ、そうそう、次には、続編「上級編」の出版も計画されているそうで、楽しみなところである。
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