ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

古くて新しい文明

2018-08-26 23:38:56 | エッセイ

―第32回自治体学会青森大会における岡崎昌之先生の基調講演と、第2分科会での大森彌先生、宮口侗廸(としみち)先生のおはなしから―

 

 8月24日(金)~25日(土)と、青森市で開催された自治体学会の大会に参加した。昨年夏の山梨大会に引き続き、この5月の青森でのプレイベントにも参加したところだ。

 24日は、正確にいうと地元主催の「政策交流会議」で、青森県の三村伸吾知事が、減塩運動のダシ活のパフォーマーとして、割烹着に三角巾姿で大奮闘の公演なみの講演を聴かせていただいた。1956年生まれ、私と同い年らしい。

 両日の詳しい内容については、そのうちに報告集が出るはずであり、私の手には余ることである。ここでは、午前中の岡崎先生の基調講演「地域の価値を確認し、未来を展望する」、また午後の第2分科会「都市と農山漁村の共生」を聴いて、思ったこと、考えたことを書きとめておこうとするものである。

 このあたりは、私が最近、本を読み、つらつらと考えていることではある。

 第2分科会は、大森彌東大名誉教授、宮口侗廸早稲田大名誉教授の、先達おふたりと、地域おこし協力隊の経験を持つ30歳代の若者ふたりの4名がパネラー、コーディネートは読売新聞編集委員の青山彰久氏である。

 ふたりの若者のひとりは、元秋田県上小阿仁町地域おこし協力隊員の水原総一郎氏。神奈川県相模原市の生まれ、武蔵野大学で日本語教育を専攻し、留学生サポーターを経験した後、2009年、施行初年度の地域おこし協力隊員制度に応募、東北で2例目の隊員とったという。

 園山和徳氏は、島根県出雲市の生まれ、愛知県の大学を出た後、地元島根でIT関係の仕事に就いたあとに、隊員に応募。下北半島の先端部、大間町の隣の佐井村にて地域おこし協力隊員となった。現在は一般社団法人くるくる佐井村代表理事を務める。

 第2分科会の趣旨は、大会当日資料によれば、下記のようなものである。

 

「都市にとっての農山漁村の意味、農山漁村にとっての都市の意味を、これからの自治体経営・国土構造・地方制度のあり方として考える。都市にとっての農漁村は、都市に食糧・エネルギー・人間を供給する場というよりも、都市が忘れた「自然と折り合って暮らす豊かさ」「共同体の中で暮らす幸せ」という環境思想と生活文化を保存する場だろう。他方、農山漁村にとっての都市は、多様な個性をもった人間が集積して新しい時代の思想や文化を創造しつづける場であるはずだ。工業化・都市化が終わった今、都市中心に上からの統治を目指すのではなく、都市と農山漁村を「互いに互いを必要とする関係」とみて連帯する方向を、青森・秋田で地域おこし協力隊を経験した若い世代の報告を聞いて考える。」

 

 当日の内容は、まさしく、ここに書かれたとおりのことであった。

 大森先生の当日の発言は、当日資料集に、小田切徳美・藤山浩氏らとの共編著「シリーズ田園回帰⑧ 『世界の田園回帰―11カ国の動向と日本の展望』」からの抜粋が掲載されており、ほぼ、そこに書かれた趣旨を語られた。

 

「田園回帰は、いわば「向村離都」であるから、そこには田舎を志向して都会を離れるという選択が働いている。「向都離村」も、動機や事情はどうであれ、離村出郷の意思の現れであるから、選択の契機がなかったわけではない。しかし、若者を中心に今でも続く「向都離村」の動きの中で、「向村離都」の動きは特段に意義深い。それは、田舎(農山村)の価値が再認識され、いままで染みついてきた「田舎・田舎者」の負のイメージが克服されようとしているからである。」

 

 都市と農山漁村の共生を進めるのは、都会人が切り捨てる「田舎者」ではなく、誇りある「田舎人」なのであると。都会人が、センスのない、野暮ったいひとびとを称して田舎者と呼ばわるような姿勢からは、共生は生まれないのであると、先生はおっしゃる。

 

「ひとりの人間の中に都市と農村が共存しうるかどうか、そこがポイントです。」

 

 当日の私の走り書きのメモに、先生のこんな言葉があった。

 

 宮口先生の掲載の資料は、平成30年1月8日付の町村週報掲載の「農山漁村の価値をあらためて考える」である。宮口先生も、ほぼ同じ趣旨を語られた。

 

「筆者も近年、地方出身ではなく、大都市で大量に育った地方を知らない世代の中から、すなおに地方特に農山漁村に魅力を見出す人たちが一定程度育ってきたのではないかと考えてきた。大都市にはそれなりの価値を感じていても、一方で自分が暮らす場として地域を考えたときに、様々な接点から、自分にとって大都市にはない魅力を持つ地域があるということに気づき、その際の心の高まりによっては移住という行動へ向かう人たちが、大都市育ちの中からあらわれたという見方である。」

 

 宮口先生の発言として、こんなメモを書きとめている。

 

「教える立場ではなく、教えられる立場に立てるかどうかがポイント」

 

 一定以上の年齢の、もののわかった風な大人が協力隊員となっても、ほとんど役に立たないということらしい。ついつい上から目線で、人々に指導を始めてしまう。偉そうなお説教を、表面上ははいはいと聞いているかもしれないが、実のところは、馬耳東風、聞き流しているだけで、そこからは人間的な交流も生まれず、互いの成長も見込めない。

 人生経験のほとんどない若者が、村人に教えを乞う、そこから村のひとびとは心を開き始める。そして、教えることで、忘れかけた技術を、手技を思い出すこともありうる。改めて語ることで、未整理だったものが整理され、深い理解が進むということもありうる。聞いた側も、聞かれた側も共に成長する契機となりうる。

 水原氏、園山氏の体験も、まさしくそういうものであった。

 これは大変に興味深い現象である。

 ふたりの若者の報告、ふたりの碩学の解説、そのすべてが、現在において興味深い、意義深いものであったが、そのすべてを報告することは私の能力に余ることである。

 最後に、フロアから質問させていただいた。

 気仙沼に「ペンターン女子」と呼ばれる若者たちがいる。唐桑半島(ペニンシュラ)に、Iターンして住みついた20~30歳代の女子たちである。彼女たちは、都会生まれのものもいるが、日本の西の方で育って、首都圏等の都会の大学に進んで、そこから東北、気仙沼の唐桑を選んで移住してきた。

 園山氏は、島根を出て、中京地区の大学を出て、下北半島の佐井村にやってきた。水原氏は、神奈川県から東京の大学を出て、秋田県上小阿仁町にやってきた。

 自分の田舎があるひとも、都会を経て、また別の田舎に飛び込んでいく。Uターンせずに、Iターンしていくというところにどんな理由があるのだろうか?

 そこをお尋ねした。

 ただ、私は、おふたりの個別の事情を質問したかったわけではない。彼らには、個別の事情があるわけであり、一方、そこに、巨視的な問題もまた投影されているわけでもある。

 大森先生、宮口先生とも、自分の出身地である田舎にUターンするというのは、距離感が近すぎる、あるいは、親世代の力が強すぎる、だから窮屈で自由に動けない、自由な発想で動きづらい、という趣旨のことを答えられていた。適切な距離感が大切なのだと。

 それは、まったくそのとおりである。

 そこに現在の文明のありようがある。

 都市は自由にする、という段階を経た田舎。再発見された田舎。現在の時点における、ねじのようにぐるりとまわって同じ場所に還ってきたようにみえつつ、実はいちだん上昇したような。

 その際には明言しなかったが、岡崎先生の基調講演で文明、という言葉を使われたこととの符合を考えていた。

 

 岡崎先生の当日資料は、月刊「ガバナンス」2018年4月号に掲載された「まちに出かけ 地域と向き合い、現場から学ぶ」という論考である。

 

「…日本の地域、集落はさまざまな由縁を持ち、奥深い。…それぞれの地域で永く続いた歴史的蓄積を持っている。地域固有の文化を地域社会や集落単位で育んできた。そこにはかつての歴史的記憶が地層のように黒々と積み重なっている。

 歴史性だけではない。四季折々に変化する日本の自然は、微細であり高い生物性を持ち、多種多様な動植物が存在する。その自然を最大限に活用した農林漁業と、それを基盤としたさまざまな生業が営まれてきた。後は野となれ山となれ、と放置された荒野ではなく、その多くは人の手の掛かった人文性の高い自然である。深山から里山へ、邑から野良へ、川から浦へと、多様な自然が連なる地域の光景は魅力にあふれている。」

 

 田舎にあるのは、手つかずの自然ではない。

 人々の歴史と、人手のかかった自然、これを、講演では文明と呼んだ。

 いま一般に文明という言葉は、そこから脱却すべき、否定的な対象として語られることが多い。いわゆる物質文明、大規模な機械文明、高度資本主義文明。精神を置き去りにした、非人間的な世界。

 そういうものとは、また別の文明。手作りの、手仕事の文明。

 クラフト、工芸、民芸。

 物質文明と精神文化というふうに対比される文明ではない、文化そのものでもあるような文明。

 掲載の論考には、文明という言葉は出てこない。当日の、パワーポイントの資料の中に文明という言葉が書かれ、口頭でもお話された。

 こういうふうに肯定的に使われた文明という言葉は、最近、聞いたことがなかったと思う。文明という言葉のまったく新しい使い方と言って過言でないようにも思う。

 いずれ、岡崎先生のこれまでの長年の仕事を総括されたような、気迫のこもった講演であった。

 第2分科会のコーディネーターである青山氏は、総括として資料集掲載の「他方、農山漁村にとっての都市は、多様な個性をもった人間が集積して新しい時代の思想や文化を創造しつづける場であるはずだ」という趣旨を繰り返されつつ、この自治体学会の場が、まさしくひとつの都市として情報を共有し学び合う場として機能して行くことが必要だという趣旨を語られた。

 都市を捨て農山漁村のみに立脚する、ということではなく、双方が双方を必要とし、共生していくべきであるということである。

 ずっと以前、1997年に、群馬高崎大会での、哲学者内山節氏と、当時の上原恵美代表運営委員とのパネルディスカッションを聴いて、「知ることと知らないこと」というエッセイを、自治体学会ニュースレターに書いたことがある。今回のお話も、その時考えたことと通底していることではある、と思っている。

「知ることと知らないこと」

https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/eb0b652506908b72fbf260e76252a12b

 


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