続けて、この本も與那覇潤氏の著作。日本人とは、日本人論が好きな人々のことであるとはよく言われるジョークだが、これも、数ある日本人論の最新版。私も、例にもれず、日本人論は読んでしまう。数多くとはならないが、この本の前に読んで記憶に残っているのは、文化人類学者・船曳建夫さんのものかな。『「日本人論」再考』(2003年)、『右であれ左であれ、わが祖国日本』(2007年)とか、読んだ。この本にも、船曳さんは登場する。
で、この本は、「愛知県立大学の教養科目として、2009年から私が担当している『日本の歴史・文化』の授業を講義録にしたもの」(7ページ)であるという。
大学の専門科目に進む前の一般教養の科目である。以前は、大学入学の目的の専門科目の前に義務的に通過せざるを得ないつまらない授業だとか、高校の延長でしかないだとか、ずいぶんと評判が悪かった。教養部の廃止、なんていうのもずいぶん、進んだみたいだ。
一方で、止めるのでなく、改革するという方向もあって、最近では、各大学それぞれに工夫があるようで、結構面白いと評判になっていたりするケースもあるらしい。
そうそう、船曳建夫氏は、そうだな、もう30年ほども前に、東大の教養学部の教養科目の刷新みたいなことに取り組んで、その結果から生まれた「知の技法」というベストセラー(たぶん)の編者のひとりだった。この本は、役に立った。(ということを、どっかで最近書いたばかりだな。)
教養科目とは、「自分の側の文脈(前提とする知識や価値観)を自明視せずに、自分とはまったく違う前提や背景を持っている人たちにも理解できるかたちで、自分の考えていることを表現する能力」を養う教育。「特定の文脈を超えてゆく力。たとえば『日本人なら、誰もが『あるある』と思うこと』を、この『日本人なら』という前提を外しても相手に通じるように、なにがどう『ある』のかを説明できる技量を養う」(10ページ)教育であるという。
専門科目とは、まさしく特定の文脈を深く極めていくことであるのに対し、教養科目は、広く多くの人々とコミュニケートできるための教育ということになる。
與那覇氏自身は歴史学者であるが、目次を見ると、この本では哲学、心理学、社会学、民俗学、文化人類学、地域研究、カルチャラル・スタディーズ、比較文学、比較文化とか、思想史、倫理学と幅広い文化系の学問を紹介しながら、「日本人とは何か」というテーマを探究していく。実は、與那覇氏は、東大でも文学部ではなく、教養学部の出身で、そもそもが、狭い専門の中に閉じこもるという方角ではなく、まさしく、ここでいうような「教養」を踏まえた広い視野の中で、深い専門を身に付けたと言うべき経歴をお持ちだ、といって、恐らく間違いないのだろうと思う。
余談だが、ぼくは、東大でも、ICU(国際基督教大学)でもないが、当時数少ない教養学部の出である。一応、哲学・思想コースとか言っているが、四年間一般教養で卒業したようなもので、専門はない。これはこれで、困ったものではある。
さて、この本のテーマは、「再帰性」である。日本人とは何か、日本人はなぜ存在するかというテーマを追うということが、すなわち「再帰性」をめぐる議論となるということ。
「再帰性」とは何か。
「認識と現実とのあいだでループ現象が生じることを、社会学の用語で『再帰性(reflexivity)』といいます。」(25ページ)
これだけでは何のことかわからないな。
與那覇氏は、アメリカの社会学者マートンの説を引いて、「『あの銀行は危ないらしい』という噂が広まると、その時点では潰れるような経営状態ではなくても、みんながその銀行から一斉に預金を引き出すために、本当に潰れてしまう。…最初は間違った認識だったのに、預金をおろした人は『やはり噂は本当だった』と思うわけです。」(27ページ)と説明する。
「これに近いのは、かつての太平洋戦争ですね。『いずれ、アメリカとは絶対に戦争になる』という思い込みがあったために、『ならば、先手を取らなければ日本に勝ち目はない』と考えて、真珠湾に奇襲攻撃をしかけることで、本当に戦争を始めてしまったのです。」(27ページ)
思い込みが現実になってしまうループ現象か。
「たとえば、流行現象は、ほとんどが再帰的なものでしょう。みんなが『これが今年の流行だ』と思い込むことによって、本当にそれが流行る。(中略)しかし、現在の資本主義経済は、こうして流行を起こすことで雇用や賃金の原資を作っています。そして、それ以前に、経済を支えている貨幣というもの自体が再帰的な存在にほかなりません。」
一万円札に価値があるのは「『その貨幣に一万円分の価値(にふさわしい本質)があるから、一万円分の商品が買える』のではなく、『現に一万円分の商品が買えるから(買えるあいだだけ)、その貨幣に一万円の価値がある』のです。」(29ページ)そういうことになっているからそういうことになっているとしか言えないようなこと。よく考えると、みんなが自然に納得できるような理屈はないのだということ。
貨幣というものがそういうものであるということから、「人間社会はそもそも再帰性を活用しなければ成り立たないものであることがわかります。」(30ページ)
「再帰性」というのは、まあそういうようなもの、なんだけど、実際のところ、これは相当に難しいことだな。なかなか、素直に納得できるようなことではないだろうな。
「日本の歴史や文化を考えるというのは、最初から『実在』するものとしてのそれらを過去に探しにゆくことではなく、逆にそれらが存在するかのように人々に思わせてきた、再帰的な営みをたどることなのです。」(33ページ)
と、まあ、これ以上は、実際に本を読んでもらわないと分からないだろう。この本は、それこそ、最初から最後まで「再帰性」の話といって過言ではない。これは、文字どおり、過言でない。
しかし、この本全部が、「再帰性」についての、抽象的な小難しい議論が続くということではもちろん、ない。
織田信長やら、ウルトラマンやら、ゴジラ、タカラヅカ、手塚治虫、のび太やしんちゃんなどなど、具体的なわかりやすい事例を上げてのお話で、面白く読みやすく「再帰性」に関して説明される、ということになる。
で、最後までたどりつくと、やはり、再帰性の話である。
「私たちが、私たち自身の意識を媒介しない『あるがままの自然』にしたがって生きることをやめ、みずからの周囲にある環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーのあいだだけで通用する現実につくり上げることを始めたときから、動植物とは異なる『人間』の歩みが始まった。それを自覚することが、この世界でよりよく生きるための基礎なのだ…」(183ページ)
「自然にしたがうという正解があった世界を離れ、森羅万象が私たちに自身の選択によって、不断にかたちを変えてしまう社会で生きること。『日本人』のような自分が属する集団さえもまた、決してひとつの輪郭には収まらないことを知り、そのようなあいまいな存在として、しかし『次はどんなかたちにしようか』という、夢をみながら生きること。
―そこに、人間のみじめさと、偉大さと、せつなさと、すばらしさと、そのすべてがあるのです。」(184ページ)と述べて、與那覇氏はペンを置く。
ところで、「法律」もまた再帰的なこのであることは論を待たない。もう少し、ぼくらの身近なところで言えば「条例」もまた再帰的なものである。
それに規制され縛られるものでありつつ、実はぼくら自身がつくり上げるものでもある。
条例っていうのは、ぼくらがつくるものなんだよ、ということは、実は、あまり広くは認知されていなかったり、忘れ去られていることがらではあるのだろう。ということを、課題として抱えていきたい、ということをとりあえず、ここにメモのように書いておく。
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