ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

哀愁の声色

2013-08-26 14:16:22 | エッセイ
 あるひとが死んだ。
 美人であったと言って間違いはない。ちょっと枯れた、しかし透き通った哀しい声の持ち主だった。そしてもちろん、深い感情が現れざるを得ない見事な歌を歌った。そのひとの生まれや育ちは分からなかったが、何か、生まれや育ちが現れているに違いないと思わされる歌だった。
 夜の東京、新宿歌舞伎町で生まれ育ったわけではなく、しかし、歌舞伎町に流れ着いた女そのものであろうと想像されるような。
 そのひとが、自ら死んだ。なぜ、いま、と疑問が生じるのは当然のことだが、心のどこかで、ああ、やはり、と納得してしまうところがあるのもまた否めない。いま、日本の50歳以上の人間なら、そうだな、と頷いてしまうところはあるはずだ。
 そうだ、50歳以上の日本人で、彼女を知らない人間はいない、そういう人間だ、彼女は。
 そうして、もうひとりの女性は生きている。
 今、ニューヨークにいるのか、トウキョーにいるのか定かではないが。
 彼女は、ローティーンのころから、哀しい歌声をもって登場してきた。彼女は、生まれや育ちがどんなものか、詳しいことを知らないのはもちろんだが、そんなに悲しくもなく、苦しくもなかったとは見えた。
 父親と母親が、必ずしも順調にキャリアを積み重ねてと言うのでなく、どこか、本来有り得べき世の評価を得られていない思いは抱えていたのかもしれないが、すでに名声を確立した母親の稼ぎは、生活の維持に不足するなどということはなかったはずだ。
 小さな車一台に乗り込んで、3人で新しい音楽を作り出していこうとする家族は、まだその形では売れないとしても、未来への希望はあったはずだし、家族で幸福な時代を過ごしていたはずだ。
 だから、少女は、どんなに哀しい声をもっていたとしても、それは、実人生の哀しさではなかったはずだ。むしろ、母親譲りの天性の才能そのものでしかなかった。見事な声であり、歌だった。天性の哀しい歌声の、天性の明るいキャラクターの女の子。
 この少女の登場で、日本人の新しい大衆音楽はようやく完成した、と言うべきだと私は思う。
 音楽的な知性に、ようやく音楽的な感性が合体することができた。知識と感情が合一できた。
 宇多田ヒカルが、藤圭子の娘として、ようやく、明治維新以降の現代の日本大衆音楽を完成させたのだ。
 いや、藤圭子が、ある時代の日本人の感性を代表する歌を歌ったことも事実だ。それは、当時の大衆音楽の達成であることも間違いはない。
 しかし、ビートルズと出会って以降、ぼくらは、日本の歌謡曲、演歌と呼ばれるようなジャンルは毛嫌いしてきた。明治以降の西洋音楽の導入のなかで、演歌は鬼子であると断罪してきた。鬼子であり、妥協でしかない。
 そして、実は、今に至って、所謂Jポップの大半は、歌謡曲でしかないと断罪しつづけている。
 そのなかで、宇多田ヒカルは、全く違う次元に、日本の音楽を引っ張り上げた。
 宇多田ヒカルこそは、現代の、知性と感性が合体したほんとうの日本大衆音楽を完成させたのだ。
 それは、藤圭子の娘であったことによって可能となったことだ。
 宇多田ヒカルの哀しい声、感情の深さ。

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