京都大学教授で経済思想家の佐伯啓思氏に「自由と民主主義をもうやめる」(幻冬舎新書)という、挑発的なタイトルの本があって、なかなか示唆に富む好著である。かれは保守主義者であるが、親米ではないという。「親米保守」は「保守」ではない、のだそうだ。実はアメリカこそ最も極端な「進歩主義」の国なのだという。
保守主義者が親アメリカだというのは、そもそも語義矛盾であると。
「アメリカは、合理主義精神によって、社会をうまくコントロールできると考えます。人間の無限の自由に大きな価値を置きます。…徹底した技術主義、それによる人間の自由の拡大、社会を合理的に変革できるという信念、それこそが『アメリカ文明』を特徴づけるものです。そしてこれこそが進歩主義にほかなりません。実際、今日の世界で、アメリカほど『歴史の進歩』を信じている国はほかにありません」(「自由と民主主義をもうやめる」23ページ 第1章保守に託された最後の希望 小見出し「親米保守」は「保守」ではない)
「進歩」は、「保守」の対義語である。ここから前に歩んでいくのが「進歩」であり、ここを守り続けるのが「保守」。これは、言葉の意味を考えればすぐ納得できるものだ。「保守」は「進歩」しないのである。
最近の若い人々は、「革新」と言う言葉を聞いたことがあるだろうか?
戦前には、「革新官僚」という言葉があった。戦時の総動員体制を推進しようとする当時の若手官僚、言ってみれば、軍国主義を推進しようとした官僚たちのことで、後の首相岸信介らもその代表的なひとりである。この岸の孫が、今の安部晋三首相であることはあえて言うまでもない。
それはさておき、私たちの世代になじみが深いのは、戦後いわゆる55年体制における「保守」対「革新」。自由民主党は保守で、社会党などは革新と呼ばれたその革新。私は1956年生まれなので、ずっとその体制(55年体制と呼ばれる体制)のもとで生きてきた。
革新と言う言葉は、戦前には右翼的だったのに、戦後には左翼的に使われることとなっている。
しかし、最近は、革新政党だなんて誰も言わなくなった。何の事だかわからない層も増えているに違いない。
保守政党は、現在でも元気で、もちろん、自由民主党のことである。(民主党は、保守と保守ではないひとが混在している。この保守ではないひとびとは、ほぼ元は革新なのだが、今はすでに革新とは名乗らないようだ。ただ、民主党は、長く続いた自民党の政治を変革しようとした人々であって、それは、つまり、政治を革新しようとしたと言えるわけだが、だれも、革新という言葉は使わなかった。ちょっとまえの「革新」と区別する為であったことに間違いはない。)
ぼく自身は、十代からこのかた、疑いもなく革新でしかなかったが、いまは、そうではない。特に佐伯さんの言うような意味では、ほぼ保守だと言っていい。いわゆる新自由主義者を前にしては、国家主義者であるとすら言っていいかもしれない。
基本的人権が守られなければいけないことはいうまでもないことだが、過剰な自由、経済的な意味での自由は大きく制限されなければならないと思っている。これは、法的に制限するというよりは、金銭やモノが、世界中を障壁なく過剰に自由に流通してしまうような状態を、あえて作り出すべきではないのではないかというような意味で。国家による壁、地域差による障壁みたいなものは、残って行ったほうが良い、残すべきであるみたいなことだ。(ちなみに、スローフードとはそういう理念だ。)
内田樹氏が、ブログで安部政権の改憲案の新しさについて述べている。これは後ろ向きの懐古的な改憲ではなく、時代の進歩に棹さす、むしろ、新しい改憲案なのだと。資本主義の進展にあわせて、より資本が自由に動けるようにするための改憲、と言うようなことだと思う。国家が国民を守るのでなく、グローバルな資本を守ろうとする。(内田氏は、もちろん、その改憲案を支持しているわけではなく、それでいいのかと疑問を投げかけているのだ。)
国家が資本に従属するというのは、従前のマルクス主義的な国家の理解だが、いま、行われようとしていることは、まさしく、とてもグロテスクな経済至上国家の建設(あるいは追認)なのだろうか?
シンプルな合理論で、押し通そうとすることには問題が多い。理屈で考えれば、そうならざるを得ないと、主張を押し通していくとき、必ず、見落としている小さな問題、矛盾がある。原理は常に仮説である。
もちろん、理屈はとても大切だし、理屈なしに、カオスのような世界を生き延びていくということは不可能なのだが、見落とされる小さな問題についても、常に念頭に置くことを忘れてはいけない。現にあるさまざまな障壁こそ、大切にすべきもの、大切に保守していくべきものと言えるのだと思う。これはまた、今の選択とはまた別の選択を念頭に置いておくこと、でもある。
ところで、一昔前の保守党は、経済の進展に合わせてさまざまなイノベーションが進められていくべきという進歩主義者であり、改革派であった。(これは今でもその通りであろう。)もう一方の革新党派は、経済力の進展において、様々な問題の解決を図るという成長主義者であったことは明らかであるが、環境について、また人間の生命、人権について保護、保全、保守すべきであると主張した保守主義者であった。そういうねじれがあった。
ぼくは、いま、成長主義者ではない。経済の進展第一と考えてはいない。人間が穏やかに暮らしていける社会が大切と考えている。環境や人権は、保護されなければならないと考えている。しかし、穏やかに暮らしていくためには、ひょっとして、経済の成長が不可欠なのだろうか、どうなのだろう、というのが、もっとも根本的な問いとなっている。これは、結構難しい問題なのだと思う。
タイタニック号は沈みかけているとして、船内の遊戯室の盤上のゲームに勝てない限りは、どのみち、生きていけないのかどうか?あるいは、もうひとつ別の問題として、タイタニック号は航行を続けながら、補修可能なものかという問いもあるのかないのか?
さて、どうなのでしょうね。
保守主義者が親アメリカだというのは、そもそも語義矛盾であると。
「アメリカは、合理主義精神によって、社会をうまくコントロールできると考えます。人間の無限の自由に大きな価値を置きます。…徹底した技術主義、それによる人間の自由の拡大、社会を合理的に変革できるという信念、それこそが『アメリカ文明』を特徴づけるものです。そしてこれこそが進歩主義にほかなりません。実際、今日の世界で、アメリカほど『歴史の進歩』を信じている国はほかにありません」(「自由と民主主義をもうやめる」23ページ 第1章保守に託された最後の希望 小見出し「親米保守」は「保守」ではない)
「進歩」は、「保守」の対義語である。ここから前に歩んでいくのが「進歩」であり、ここを守り続けるのが「保守」。これは、言葉の意味を考えればすぐ納得できるものだ。「保守」は「進歩」しないのである。
最近の若い人々は、「革新」と言う言葉を聞いたことがあるだろうか?
戦前には、「革新官僚」という言葉があった。戦時の総動員体制を推進しようとする当時の若手官僚、言ってみれば、軍国主義を推進しようとした官僚たちのことで、後の首相岸信介らもその代表的なひとりである。この岸の孫が、今の安部晋三首相であることはあえて言うまでもない。
それはさておき、私たちの世代になじみが深いのは、戦後いわゆる55年体制における「保守」対「革新」。自由民主党は保守で、社会党などは革新と呼ばれたその革新。私は1956年生まれなので、ずっとその体制(55年体制と呼ばれる体制)のもとで生きてきた。
革新と言う言葉は、戦前には右翼的だったのに、戦後には左翼的に使われることとなっている。
しかし、最近は、革新政党だなんて誰も言わなくなった。何の事だかわからない層も増えているに違いない。
保守政党は、現在でも元気で、もちろん、自由民主党のことである。(民主党は、保守と保守ではないひとが混在している。この保守ではないひとびとは、ほぼ元は革新なのだが、今はすでに革新とは名乗らないようだ。ただ、民主党は、長く続いた自民党の政治を変革しようとした人々であって、それは、つまり、政治を革新しようとしたと言えるわけだが、だれも、革新という言葉は使わなかった。ちょっとまえの「革新」と区別する為であったことに間違いはない。)
ぼく自身は、十代からこのかた、疑いもなく革新でしかなかったが、いまは、そうではない。特に佐伯さんの言うような意味では、ほぼ保守だと言っていい。いわゆる新自由主義者を前にしては、国家主義者であるとすら言っていいかもしれない。
基本的人権が守られなければいけないことはいうまでもないことだが、過剰な自由、経済的な意味での自由は大きく制限されなければならないと思っている。これは、法的に制限するというよりは、金銭やモノが、世界中を障壁なく過剰に自由に流通してしまうような状態を、あえて作り出すべきではないのではないかというような意味で。国家による壁、地域差による障壁みたいなものは、残って行ったほうが良い、残すべきであるみたいなことだ。(ちなみに、スローフードとはそういう理念だ。)
内田樹氏が、ブログで安部政権の改憲案の新しさについて述べている。これは後ろ向きの懐古的な改憲ではなく、時代の進歩に棹さす、むしろ、新しい改憲案なのだと。資本主義の進展にあわせて、より資本が自由に動けるようにするための改憲、と言うようなことだと思う。国家が国民を守るのでなく、グローバルな資本を守ろうとする。(内田氏は、もちろん、その改憲案を支持しているわけではなく、それでいいのかと疑問を投げかけているのだ。)
国家が資本に従属するというのは、従前のマルクス主義的な国家の理解だが、いま、行われようとしていることは、まさしく、とてもグロテスクな経済至上国家の建設(あるいは追認)なのだろうか?
シンプルな合理論で、押し通そうとすることには問題が多い。理屈で考えれば、そうならざるを得ないと、主張を押し通していくとき、必ず、見落としている小さな問題、矛盾がある。原理は常に仮説である。
もちろん、理屈はとても大切だし、理屈なしに、カオスのような世界を生き延びていくということは不可能なのだが、見落とされる小さな問題についても、常に念頭に置くことを忘れてはいけない。現にあるさまざまな障壁こそ、大切にすべきもの、大切に保守していくべきものと言えるのだと思う。これはまた、今の選択とはまた別の選択を念頭に置いておくこと、でもある。
ところで、一昔前の保守党は、経済の進展に合わせてさまざまなイノベーションが進められていくべきという進歩主義者であり、改革派であった。(これは今でもその通りであろう。)もう一方の革新党派は、経済力の進展において、様々な問題の解決を図るという成長主義者であったことは明らかであるが、環境について、また人間の生命、人権について保護、保全、保守すべきであると主張した保守主義者であった。そういうねじれがあった。
ぼくは、いま、成長主義者ではない。経済の進展第一と考えてはいない。人間が穏やかに暮らしていける社会が大切と考えている。環境や人権は、保護されなければならないと考えている。しかし、穏やかに暮らしていくためには、ひょっとして、経済の成長が不可欠なのだろうか、どうなのだろう、というのが、もっとも根本的な問いとなっている。これは、結構難しい問題なのだと思う。
タイタニック号は沈みかけているとして、船内の遊戯室の盤上のゲームに勝てない限りは、どのみち、生きていけないのかどうか?あるいは、もうひとつ別の問題として、タイタニック号は航行を続けながら、補修可能なものかという問いもあるのかないのか?
さて、どうなのでしょうね。
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